の生活を充たして行くことです。「今日の社会にあっては、その種類の何たるを問わず、遊手坐食はいずれの方面より観察するも断じて許さざる所である。……労働を重んずると賤《さげす》むとが新旧世界を分画する最も著明な境界線である」(滝本博士)という思想に何人《なんぴと》も異論はないと思います。
しかるに三女史とも共通の、もしくは個別的の種々の理由から、積極的もしくは消極的に女子の労働生活に反対されました。平塚、山田の二女史はこれを「詩人の空想だ」という風にまでいわれました。詩人の空想というものが、そのように安価にかつ悪い意味にのみ用いることの出来ないものであり、現実と離れた空想というものもないこと位は「美学」の一冊でも読んだ人たちには自明の事だと思いますが、姑《しばら》く二女史の常識的発言のままに従って置くとして、私は茲《ここ》に三女史に対してお答えします。
私は決して気紛《まぐ》れな妄想から経済的独立の可能をいうのではありません。子思《しし》は「あるいは生れながらにこれを知り、あるいは学んでこれを知り、あるいは困《くるし》んでこれを知る」といいましたが、私は実に早くから困んでこれを知ったの
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