の周圍《まはり》にいろんな隈をとつたりする遊女の厚化粧は決して此國の誇る趣味ではない。自分は劇場や畫の展覽會の中、森を散歩する自動車や馬車の上に、睡蓮の精とも云ひたい樣な、細りとした肉附の豐かな、肌に光があつて、物ごしの生生とした、氣韻《きゐん》の高い美人を澤山見る度に、ほれぼれと我を忘れて見送つて居る。而うして、其等の貴婦人の趣味が中流婦人乃至それ以下の一般の婦人の間にまで影響して居ると見えて、隨分粗末な材料の服裝をして居ながら其姿に貴婦人の俤のある女が澤山に見受けられる。自分は是等の趣味の根柢になつて居る物が何であるかを早く知りたい。
今《いま》姑《しばら》く自分の歐洲に於ける淺はかな智識で推し量ると、佛蘭西の女の姿の意氣で美しいのは、希臘《ギリシヤ》や伊太利《イタリイ》から普及した美術の品のよい瀟洒《せうしや》な所が久しい間に外から影響したのでは無いか。ルウヴルの博物館にある伊太利の繪と彫刻とを見た丈でも自分は然う云ふ事が想像される。其等古代の美術にある表情と線とが現に巴里の芝居の俳優の形に著しく出て來る樣に、同じく自分は其れを佛蘭西の女の日常の形に見出す氣がして成らない。其れ
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