す。暴に報いるに暴を以てしています。私はこれを見て、世界の勢力者である政治家と実業家の個人的及び国家的利己心の根柢の深いことを今更の如く恐れずにいられません。ウィルソンの明哲を以てして、なおかつそれらの多数勢力者の利己心から掣肘《せいちゅう》されているのです。
 それにつけても、日本の道徳論者はなぜ沈黙しているのでしょうか。彼らが平生よく国民に向って教える所のいわゆる日本固有の道徳は、欧米の基督《キリスト》教的道徳とは違っているはずです。その「異っている」所の立派な道徳に依って世界を指導する絶好の機会は、この度の極度に非人道的な講和条件を日本道徳の見地から忌憚《きたん》なく厳正に批判する事ではないでしょうか。
 論壇には若宮卯之助《わかみやうのすけ》氏のように、常に世界の大勢に盲従することを排撃する人たちがあります。私は今こそその人たちの手腕を示さるべき時だと思います。私は講和条件に現われたような思想が到底明治天皇の「教育勅語」の道徳と一致するものとは考えられません。世界はすべて濁るとも、日本だけは独り高く浄《きよ》まりたいと思います。(一九一九年五月二十二日)
[#地より1字上げ](『横浜貿易新報』一九一九年五月二十五日)



底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「激動の中を行く」アルス
   1919(大正8)年8月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
青空文庫ファイル:
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