生活を未来に発展し得ることを条件とした講和の成立を望んでいたのでした。
しかるに何という怖ろしい事でしょう。連合国に依って提示された講和条件は、世界に文字があって以来どの国の書物にも書かれたことのない、人間の持っている極度の復讐心と、極度の貪欲心《どんよくしん》と、極度の虐殺思想とをさらけ出したものだと思います。
敵を愛せよという基督《キリスト》教の思想は何処《どこ》へ行ったか。仏蘭西《フランス》の自由、平等、博愛の三大思想は何処へ行ったか。英国流の紳士的道徳と米国流の人道思想とは何処へ行ったか。この講和条件の中には、戦争中に歓迎された露西亜《ロシヤ》流の無併合、無賠償説の影響のないのは勿論、ウィルソンの堂々たる十四カ条の痕跡《こんせき》さえ留めていないではありませんか。
かつて戦争中に公にされたウィルソンのいくつかの宣言の中には、連合国は専ら独逸の軍閥政府と軍国主義とを敵とし、それを撲滅《ぼくめつ》するために戦うものである。独逸人に対しては何らの敵視すべき理由を持たない。むしろ独逸人を軍国主義の重圧から救って、世界的平和の中に自由なる生活を遂げしめようとするのが連合軍の志であり、殊に米国の参戦理由であるという意味の事が声明されました。世界はこれに対して一言の異議をも唱えなかったのみならず、武士道国である日本までが石井駐米大使をして幾度も賛意を公表せしめたほど、世界の是認を経たものでした。しかるに講和条件は明かにこれを裏切って、現に独逸人その物を極度に敵視し、あらゆる強暴苛酷な条件を以て七重八重は疎《おろ》か、十重二十重《とえはたえ》にその未来の発展を阻害しようとのみ計っています。もしこの条件通りに強制されるならば、独逸国民ばかりでなく、如何なる戦敗国民も現代の文化から落伍して戦勝国民の奴隷となり、次第に死滅する外はなかろうと考えます。
これが果して正義人道の実現でしょうか。世界を民主主義化する公平な方法でしょうか。
この事は独逸人の事として考えてはなりません。全く人間の問題です。個人的の利己主義を排し、刑法上の報復主義を抛《なげう》ちつつある今日、我々は国民の名において、他の国民に対して残忍非道なる利己主義と復讐主義とを施して好いでしょうか。それが英米及び仏蘭西のいわゆる「正義」そのものでしょうか。
世界の感情は今病的に極端から極端へ馳《は》せていま
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