げ終わり]
大きい傘の拡げられた刹那にばらばらと降りかかる雨が上に跳つてゐるやうな快感が覚えられた。雨も新味と変化とを喜ぶ自分達の心と同じであると云つてある。之れは夏の日の雨らしい。寒いことなどは思はれない。
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世の隅に涼しき目をば一つ持ち静かにあらんことをのみ思ふ
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善悪と美醜のけぢめに正しい判断力を備へた自分を守つて、世の表面などには出ず、人目につかぬ片隅で静かな存在としてあることが幸福であらうとばかりこの頃は希《ねが》はれる自分であると云ふ歌。
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時の波絶えず寄せ来て人の身をはてなき沙に埋めんとする
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止む間もなく押し寄せてくる時と云ふ波はこの世のどの人間をも寂しい死の沙に埋めようとして居る。こんな戦慄をする時のある作者であつた。私は作者が寂しい無色の沙へ永久に埋歿されたとは思はない。私が故人を思ふだけの心でさへ百彩の錦をなして居ると信じて居る。
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猶しばし昨日の夢にかかはりぬ覚めぎはの目の甘くおもたく
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忘れ去るべき人であると自分の理知が命ずる儘に違背しようとはして居らぬが、自分の感情の殆《ほとん》ど全部はまだその恋が占めて居る。楽しい夢を見た良き朝の目の覚めぎはの気もちとも云ふやうな、半睡時の甘美さと重苦しさを感じる者は自分であると云ふのである。約束された覚醒が近づいて来るのを恐れて居るのでもないのである。相当に複雑な気もちがよくも短く表現が出来たものであると私は思ふ。昨日と云ふ言葉なども簡単に使つてあるのではない。
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とばりより君覗くなり水色の矢車草《やぐるまさう》を指にはさみて
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自分が下を通つて行く時に窓のカアテンの間から恋人が外を覗いて居た。水色の矢車の花を指と指の間に狭みながらと云ふのであつて、是れは日本婦人の習慣に其れ程無く、異国の婦人には有り勝ちな媚態を作つて居たことが思はれる。巴里の宿の前の庭に矢車草の沢山咲いて居たこともこの歌から私は目に見えるやうに思はれる。
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もろともに花をかざして若き日はまたなしとしも歎きつるかな
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是れも同じ人を追想して出来たものらしい。花も矢車草であつたであらう。或ひは白いマアガレツトかも知れない。かざすと云ふ言葉は男が洋服の胸へさしたこともかう云つてよいのである。二人で同じ花を胸にさして若い日は去り易い、其れを知つて居る我等は燃ゆる火を内に抱いて相寄つて居るのではないか、罪であつても何であつても仕方が無いと話し合つたと云ふのである。歎くと云ふのは二人の恋の底に不安があるからである。其の場面には花園用の萠葱色のベンチがなくてはならない。
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花園《はなぞの》を隣にもてるここちしぬ匂へる君をいと近く見て
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百花爛漫と咲いた花園の意味では恐らく無いであらうと思はれる。めざましい眩《まばゆ》い花園ではなく、人が一寸《ちよつと》主人に羨望の念を抱く程度の美くしい花園を隣にして住む家に居るやうな幸福感を自分は与へられて居る。其れはこの麗人と膝を並べて坐してゐるからであると云ふのである。
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向日葵《ひまはり》を一輪活けて幸ひのうちあふれたる青玉《せいぎよく》の壺
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青玉の壺へ向日葵を一輪活けて見ると幸福と云ふものが外にまで溢れた形が見えると云ふのである。一つで壺全体を被《おほ》ふた大花であることが解り、其れが勢ひのよい盛りであつたことも解る。心もち横に傾いて居て溢れると云ふ聯想が起つたのであらう。然《し》かもこれは象徴歌で、向日葵は恋を云ひ、静かな青玉の壺に自己の心境を托したものなのである。中年の落ちついた男の恋と盛んな女の恋の形である。
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天つ日が四月の昼に見る夢か武庫《むこ》の高原《たかはら》つつじ花咲く
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空の太陽が陽春四月の昼に見て居る夢が是れなのであらうかと思つた。この躑躅《つつじ》の盛りを見る所は六甲山の高原であると云ふのであつて、躑躅は白などではなく臙脂と樺色であつたのであらう。六甲山はむこやまの当字《あてじ》に最初書かれたのが漢字読みの山の名になつて居るのである。頂上に近く石がちに原をなして居る物は灌木で大方躑躅なのである。作者はかうした景色が好きで、軽井沢から浅間にかけて躑躅の咲く季節に信州へ遊びたいと云つて居たが遂げずに終つた。
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片隅にありて耳をば澄すなりめしひの如き水色の壺
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室の一隅に水色をした陶器の壺が置かれてある。じつと耳を澄して常人の耳にはまだ入らない音をも聞かうとして居る。敏感なそしてうす無味の悪い盲目の人の座つた姿が思はれる壺であると云ふ歌。何となく寒気を覚える程確実に物が掴んである。
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行く水の上に書きたる夢なれど我が力には消しがたきかな
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行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけりと云ふ古今集の歌の意を受けて、さうした無駄な思ひかは知らぬが、自分の意志の力ではこの空想を壊してしまふことは出来ないと歎いた歌で、恋歌とせずに、他から見ては突飛な希望と云ふやうなものを胸に畳んでゐることを云つたものと解釈して置く方が妥当なやうである。
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銀泥《ぎんでい》の帯を仄《ほの》かに引きて去る杉生の底の一すぢの川
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箱根の歌である。箱根へは何度となく遊んだ作者であるが、この時の吟行は大正十年かと記憶する。塔の沢と底倉で各一泊したのであつた。強羅から宮の下へ下つて来て見た早川の景色かと思ふ。両岸の杉山の中に銀泥を刷《は》いた帯をほのかに引いて進んで行く川を作者は美くしいと眺めたのである。四月の初めで春雨も降つてゐた日のささ濁りした流れであつた。
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洞門の出口にわれを待つ友がたそがれに吹く青き鳥笛
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是れは同じ時に塔の沢から湯本の玉簾の滝を見に出かけた途中で、洞門の出口に友人の西村伊作氏が背を寄せて、土産物店で買つて来た笛を吹いて居たのであつた。黄昏《たそが》れて行く山の中の寂しさがよく現れて居ると思ふ。然《し》かも秋でも冬でもない時の寂しさが見える。青いと音の感じを云つた言葉と、我れを待つと云ふ友情とでしめやかな春を伝へてゐるのである。
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桃色の明りの中に白《しろ》を著て少女《をとめ》の如く走《わ》しりくる船
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白を著てと云ふ所まで読んで、しののめの空の下を来る少女を云ふ歌かと思ふと、さうでなく、そんな風にして白い色の船が此方へ来ると云ふのである。速力の早い小舟が生き生きとした力を現して出て来たのである。夏の歌かと思はれる。
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懲《こ》らしめて肉を打ちつつ過《あやま》ちて魂《たましひ》をさへ砕きつるかな
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放埒《はうらつ》であつた前日の非を贖《あがな》へとばかり極端に自己を呵責《かしやく》して、身に出来るだけの禁欲を続けて来たことは誤りであつた。肉体に加へた罰から精神までも哀れに萎縮してしまつた。是れは全く予期せぬことであつたと作者は云ふ。
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寂しさよこの頃おつる髪を見て作り笑ひもことにこそよれ
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寂しい事実である。何がさうかと云ふと、額の方を広くばかりして抜け落ちて行く髪の毛を目に見て、滑稽だなどとも云つて人に笑つて見せて居る自分が情けなく寂しいのである。心にもなく人に笑つて見せることはあつても是れは余りであつて、自分を醜くするこのことに反省がされると云ふ歌。
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はしたなく縁《ふち》の取れたる鏡などあらはに見ゆる我が家の秋
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縁が無くなつて裏もはげた中身だけの醜い感じのする鏡、其れがうら寒い秋にうら寒いものの目に附き易くて自分を傷《いた》ましめることの多い此頃であると云ふのである。
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女達鏡の間《ま》より裾引きてまどに寄るなり秋の夜の月
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鏡の間はベルサイユ宮殿の一室の鏡で張りつめた間のことである。大広間の一つになつて居て、窓は広い森に向いて開かれてゐる。是れは鏡の間の方から隣の部屋へ今出て来た皆夜会服の裾を長く引いた貴女達で、其の人達はこの間の広い窓の傍へ寄り、秋の夜の月の明るい庭を眺めるのであつたと云つてある。ルイ十三四世の頃の宮廷の光景を描いて居るのであつて、漢詩の宮詞と云ふやうなものである。沈香亭の北の欄干に倚つて牡丹を見て居た楊貴姫は牡丹の花と同じやうに想像され、このルイ朝の貴女達は秋の月のやうな麗人であることを思はしめる。
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曇る空波のしろきを前にして網を打つなり真裸《まはだか》の人
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曇つた空が上にあつて、下の海には白い波が立つてゐる。この風景を前にして裸体の人が網を打つて居ると云つてあるが、壮重な感じは一漁夫が立つて居るとする方にあるが、私は漁夫が幾人も居ると見る方がよいと思ふ。其れをこの言葉だけで表現し足りないとは思はない。裸男の大勢の力が集められて居ても大海や空に比べては小さいものであらうから。
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木立みな十字にとがり太陽も十字に光る冬枯の上
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どの木も十字に見え、それに射《さ》す太陽の光も十字の形に落ちて来るとより見えない、寂しい冬枯の日の園の景色。
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象の背の菩薩の如く群青《ぐんじやう》と白の絵の具の古び行く秋
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象の背に乗つて居る普賢《ふげん》菩薩の古い仏画のやうに、秋は白であつて群青色であつて、そして日日その仏画のやうに古く錆びが附て行くと云ふのであつて、作者が思つて居る普賢の像の著衣は青色の鉱物性の顔料で描かれたものであつて、顔には厚く胡粉が重ねられてあるのであらう。其れのみならず初めから灰色を塗られた象の姿も作者の目に映つて居る筈《はず》である。更け行く秋を作者はこんな風に見た。
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一切に背を向けながら入る如き甘さを感ず劇場の口
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芝居の入口に達した時の心もちに、是れで一時的にもせよ世間と断たれた世界へ身を置くことになると云ふ満足がある。気に入らぬ一切の物に背を向けて遺ることの出来る快感を感じるのはこの時であると仄《ほの》かながらも覚えると云ふ歌。
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かの隅になにがし立ちて叫べども振る手のみ見ゆ群衆の上
[#ここで字下げ終わり]
一方の隅に名士の某が立ち高い声を放つて演説をしてゐるやうであるが、何も聞《きこ》えるものでない、大衆の居る上に振る手だけが滑稽に見えるだけであると云ふのであるが、議論をする事を嫌つた後年の作者は、さうしたものは皆無用な精力の浪費であると云つて、若い人は創作をのみ熱心にすべきであると説いて居た其の心もちと取るべきである。
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拳《けん》を打つ二人の男たやすげにすべてを拒む形するかな
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拳と云ふものを目に見ない人には一寸《ちよつと》解り難い歌かも知れぬ。手の指を種種な形にして相手と亘《わた》り合ふのであるが、其の中に二つの手を前向けに立てて突出す形がある。指の二三本で変つた形をして居る時よりもこの時の形が派手で目に附き易い。形は物を拒否する姿になつてゐる。
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