あの男のやうに安易に総《すべ》ての物を否定する意志を示すことが出来れば痛快であらうと作者は横から見たのである。自分は世間に対して二つの手を前向けに立てて見せられぬのが残念であると云ふ歌。確か桜の咲く頃に石井柏亭氏などと一所に江戸川の川甚と云ふ旗亭《きてい》へ入つた時に、向うの方の座敷では拳を打つて居て、其れを此方《こちら》からでは丁度手の先きだけが見えて面白いと云ふ歌も、この作者にある。
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必ずと云ふ約束をたやすげにかはして別るうら若き人
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 永久の愛の誓ひを初めとして二年三年の後の約束も若い人達は平気でするが、其れは実行の出来難い物である事を、過去の経験からよく知つて居る自分である。自分も以前にやすやすとした約束が一つとして果されたものはない。諸君は今に自分のやうな苦い悔いばかりを味はねばならないであらうと云つて、若い人を警《いまし》める心よりは、単純であり得た自己の青春を限りも無くなつがしがつて居る歌だと私は見て居る。
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やはらかに海に入らんとする山を磯にささへて白き城かな
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 伊太利亜にてと云ふ端書きがある。伊太利亜を私は見ないのであるが、作者の歌つた所は南方の伊太利亜で、柔い岬の山が地中海に伸びて終らうとする所に白いシヤトウが立つてゐて、山の線を止めた形に見えたやうである。
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我れも行く春の銀座の灯のもとを巴里の宵の人中《ひとなか》として
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 銀座の春の灯が連つた所を自分も行く。然《しか》し此処へ集つて来る他の人達と心もちに於て少し異つてゐるのである。自分の足は現在を享楽して運ぶ歩でなく過去を追つて居るのである。巴里の夜のグランブルバアルの人波を分けて行く味《あじは》ひを是れから得ようとして居ると云ふのである。
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ここにして夜毎に逢《あ》ふと語る時銀座通を新居格《にゐかく》の行く
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 此の頁に並んでゐるのは何れも軽い調子の歌である。銀座の夜に三四人が然《し》か語つて居る時に、噂の主の新居格氏が前の舗道を通つて行つた。
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カフエエより扇形して春の夜の銀座の雪を照らすともし火
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 銀座の雪の上へ家の入口の灯の明りが末広がりに扇の形をして射《さ》して居ると云ふのであるが、唯《た》だの家とは内容の異つたカフエエの灯であることで、内の濃彩と外の淡彩で好い諧調が構成されてゐるやうに思はれる。早春の雪に違ひない。作者はカフエエの中から見てゐることは云ふまでもない。
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若きむれ酔ひて歌へば片側の卓にある身もおもしろきかな
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 作者と片隅の卓へ一所に倚つて居る人達を云ふのでなく、彼方此方に一団一団になつて居る若い連中があるのである。酔つて歌ひ出すまでにも其の人達の歓語が耳を喜ばせて居た。
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なほ注《つ》げと低き声しぬ誰れ待ちて隅の卓なる白きうなじぞ
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「もう一つ」と女は低い声で云つて、ギヤルソンに卓上の杯《さかづき》を指して居た。この時刻に此処で逢ふ約束の人を待ちかねて居る様子が、顔を外へ見せぬやうにして俯向いた美くしい白い頸附きに見える。と云つて作者は待たれる男の幸福に多少の羨望を感じて居ることも見せた歌である。是れは銀座にゐて遠い巴里と古い記臆を幻に描いた作である。言葉を態《わざ》と省略して頸の形だけを云つて女の気もちを其れに托してある。
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君により初めて明日の歌を聞く凍れる中の春のおとづれ
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 吉田精一氏の歌集春の口笛の序に詠まれた歌の一つである。この作者に由《よ》つて自分は初めて未来の世界を見ることが出来、明日の詩を聞くことが出来た。自分達の周囲は今|総《すべ》て凍《い》て附いてしまつてゐる。こんな時に春の訪れを持つて来てくれた歌集であるから嬉しいと云ふのであつて、集の名の笛を離れずに所信が叙べられてある。
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にはかにも松を通して朱をながす夕日の中の街道の雨
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 夏の変調な天気らしい。東海道の藤沢辺の街道を少し奥へ入つた家から作者は見て居るやうである。古い並木の松であるから大木が列をなしてゐて、足柄辺りへ入る日が赤い夕焼を作つてゐる空が背景になつて居る。この街道の上に今雨が降つて居るのである。相当に烈《はげ》しい雨らしく思はれる。
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何故と世に問ふことを忘れたるうつろの心しづかなるかな
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 自分が何故に無視されてゐなければならぬかを世間に対して問つてやりたい心持ちも、何時となくどうでも好い気になつた、従つて憎みも悲みも忘れた今の心境は静かである。この空虚は愛すべきものであると云ふ歌。もとより是れは作者自身だけが空虚と呼んでゐる空虚なのである。
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うきことは思はぬ如く馳せながら薔薇を散らしぬ曲馬の女
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 人間である以上、然《し》かもあの境遇にゐる以上持つてゐない筈《はず》のない悲みを忘れたやうに感じないやうに馬上から薔薇の花を撒いて居る曲馬乗りの女よと云つてある。是れも作者は日本で見た曲馬ではなく、郷愁を抱きながら巴里の旅先で見た曲馬らしい。
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その中に白き孔雀の誇りもて長く引きたる夕ごろもかな
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 仏蘭西座の廊下を往来する貴婦人達の中の特に目立つ一人を作者は歌つたのであるが、そんな場所でなく、或る大邸宅の夜会場で思ふ人が誰れよりも素ばらしく、白い衣装を著けて現れて来たやうな解釈が出来ないこともない。作者が巴里に居た頃の女の夜の服は四五尺も裾を引くのが多かつた。白い孔雀が鳥の王のやうな誇りを持つて居るのと、其の人の外へ現れた自尊心に共通なものがあつたのである。
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我が筆もミケランゼロの鑿《のみ》のごと著くるところに人をあらはせ
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 巨匠ミケランゼロの鑿の当てられるものは岩も木も生命のある人になつたと云ふが、自分の筆もさうでありたい。一度び書かうとすれば遺憾なく万象が詩になるやうにありたいとかう作者は望んである。
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いろいろの波斯《ペルシヤ》のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑
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 松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
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我が手もて捉ふることの難しとはなほ願《ねがは》くは知らであらまし
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 自分の力ではどんなに最善を尽くしても得られぬ望みであると云ふ自覚は永久に与へて欲しくない。何時までもこの空想を捨てたくないと云ふことが云はれてゐるのであつて、恋の歌と解釈が出来ないではないが、作者の比較的後年の作であるから、その外のことと見る方が妥当なやうに私は思ふ。
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おほかたの目に見えざれば人知らじ心に祈り血を流せども
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 是れも恋歌めいては居るがさうではないと私には思はれる。普通の目で見ては自分ものんきな者に見えるであらう、芸術の道の精進の為めに心には血を流すほどの苦しみをして居るのであるがと解すべきである。



底本:「冬柏」新詩社
   1935(昭和10)年6月号
   1935(昭和10)年7月号
   1935(昭和10)年9月号
   1935(昭和10)年10月号
   1935(昭和10)年12月号
   1936(昭和11)年2月号
※掲載誌に重複して記載されて居る表題「註釈與謝野寛全集(通し番号) 晶子」は、省略しました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※底本で「灯」と混在している「燈」は、新字に書き替えませんでした。
※底本は、以下に振り仮名(ルビ)をふっています。
尺度《ものさし》、家鴨《あひる》、裸《はだか》、木花咲耶姫《このはなさくやひめ》、乾漆《かんしつ》、木彫《もくてう》、料《れう》、遠方《をちかた》、吾子《あこ》、穀倉《こくぐら》、種子《たね》、半切《はんせつ》、沈黙《ちんもく》、屋後切《やじりきり》、金《きん》、額《ぬか》、書《ふみ》、走《わ》しりくる、縁《ふち》、拳《けん》、波斯《ペルシヤ》
加えてこのファイルでは、読みにくい、もしくは、読み誤りやすいと判断した言葉に、ルビを補いました。短歌へのルビ付けにあたっては、「與謝野寛短歌全集」明治書院、1933(昭和8)年 2月を参照しました。
入力:武田秀男
校正:土屋隆
2005年3月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。
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