太陽と云ふ大力のその男は逞《たく》ましい裸体で、健康さうな赤い皮膚を持つてゐると作者は見た。面白い歌である。
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大詰のあとに序幕の来ることただ恋にのみ許さるるかな
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 最後の破綻と見なすべき事があつて、更らにまた初めの甘い相思が帰つて来る。他の事には見難いこの形式を人も見て疑はないのは恋愛にのみ限られた事であると云ふ歌。
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我が涙はかなく土に消ゆべきや否否人と云ふ海に入る
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 寂しく土に沁み込んで行くのを見る外もない自分の涙であらうか、さうは見えるであらうが事実は違つて居る。この涙を受けて呉れるのは海ほど広大な恋人の心であると云つてある。此処で人と使つてある言葉は、恋とか君とか云ふ方が解り易くはあるが、其れでは作者のねらつた重さが現れない。温い人間と云ふものの中の代表者である彼の人と云ふ事はこの一語で云ひ尽くされてゐるやうに私は思ふ。
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巴里にて夜遊びしつつ覚えたるよからぬ癖の嗅《か》ぎ煙草かな
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 作者の居たモンマルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。
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時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京
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 時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。
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外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする
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 これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を被《おほ》はうとした刹那に、某年某月の旅に嘗《な》めた異境での悲みが突然心に蘇《よみがへ》つたのである。
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青ざめて物思ふこと人よりも多きに過ぐるたそがれの薔薇
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 自分等などよりも物思ひを多くする風に青ざめた顔の白薔薇の花であると、夕明りももう暗くなりかかつた空の下で見たと云ふのであるが、物思ひを多くするらしいと見られてもなほ美を損《そこな》はぬ程度の花であつて、人はまた恋に痩せながらも更らに其れよりも幸福なやうに思はれる。
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浮びたる芥《あくた》の中に一筋の船のあとあるたそがれの川
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 都の中の川らしい、川一面と云ふのでないが、作者の目の行つた所には相当に広く芥がひろがつて水を被《おほ》ふて居た。その中に一筋の道が出来てゐるのは、船が行つた跡なのであると云つてあるが、船が作つて行つた道がいかに美くしい水の色をしてゐたか、其れは彼方の川上にも川下にも見出せないやうな清い光をなしてゐたであらう。醜い芥はつつましく身を両側へ退けてゐたに違ひない。
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ねがはくは若き木花咲耶姫《このはなさくやひめ》わが心をも花にしたまへ
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 或る音楽者が短歌の作曲をして見たいと申込まれた時に、作者は幾首かの歌を呈供したが、是れもその中の一首であつた。半切などにもよく故人はこの歌を書いた。春の神を呼びかけて云ふのにふさはしい快い調子の歌の出来たのを故人は嬉しく思つて居た。木の花を統べ給ふ情知りのさくや姫よ、自分の心にも花を咲き満たせ給へとかう歌つた作者は青春期になほ籍を置くもののやうに恍惚としてゐる。派手な恋の勇者にもならうと望んでゐる。
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手のひらを力士の如くひろげたるシヤボテンの樹に積るしら雪
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 唯《た》だ大きいだけでなく、厚味も豊かな相撲力士の拡げた指のやうな大葉のシヤボテンの樹に雪が白く積つて居る。私にはこの大葉のシヤボテンは嫌ひなものの一つであるが、この歌を見ると、雪の白く積つた何処かの朝の庭でもう一度この木を見直して見ようかと云ふ気がする。
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上目《うはめ》して何となけれど物一つ破らまほしきここちするかな
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 他目には唯《た》だ遠い所を見る目附きをして居る自分であらうが、苦しい束縛を自分に加へてゐる目に見えぬ幾つかの物の中の、何かの一つを破つてしまひたい気に自分はなつて居ると云ふのである。
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乾漆《かんしつ》か木彫《もくてう》かとて役人がゆびもて弾《はじ》く如意輪の像
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 大和あたりの古い寺へ係りの役所の吏員が来て乾漆で成つた仏像か、木彫仏かと云つて、指で如意輪観音の黒ずんだ像を弾いて見てゐる。彼等は仏像そのものに対して不謹慎であるばかりでなく、いみじい古美術に何らの尊敬を払はうとして居ない。骨董品の性質を調べ上げて能事終るとして居ると云ふのであるが、是れも作者自身を見る世間の目を飽き足らず思つての作であらう。
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その人に我れ代らんと叫べども同じ重荷を負へばかひなし
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 これは恋の歌ではなく、友情から発した悲憤の声であらうと思はれる。ある気の毒な境遇に居る人を自分の力で救ひ出さうと思つたが、顧れば自分もその人と同じだけの重荷を負つてゐて、身じろぎも出来ないのであつた。上げた叫びも空なものになつたと悲んで居る。
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美くしき太陽七つ出づと云ふ予言はなきやわが明日のため
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 自分だけが見る世界には美くしい太陽が七つまで出るであらうと云ふやうな予言を聞く事が出来ないのであらうか。不運な自分にせめて未来をさう云つて力づけるものがあればいいのであるがと云ふ歌で、作者は空想をただ文字に並べて七つの太陽などとしたのではなく、望む所の美も富も恋も詩も輝やかしく明らかに想像してゐる。その幸福をもう一歩で手に取り得る自信を十分に持つて云つてゐるのが佳いのである。
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わかくして思ひ合ひたる楽しみを礎《いしずゑ》とする人間の塔
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 青春時代に相思ひ合つた恋愛の囘想を根拠にして建てた、宗教の外の是れは人間の塔である。自分の礼拝するものはこの以外にないと云つてある。
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手ずれたる銀の箔をば見る如く疎《まば》らに光る猫柳かな
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 銀箔の押された屏風が古びて黒くなり、それがまた手擦れて所所の光るのを見るやうな落ちついた快さと同じものを早春の猫柳は見せてゐると云つてある。上白んだ猫柳の芽の銀色はいかにもさうとより思はれない。疎らに附いて居ると云ふのもなければならぬ説明である。
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取らんとて逃ぐるを恐る美くしき手は美くしき小鳥なるべし
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 恋人の手を取らうとした刹那に、この自分の手が其処へ行くまでに飛び立つてしまはないであらうか、取返しの附かぬ失望を次の瞬間から自分は味はねばならないのではなからうかと恐れた。美くしい手と云ふ物は美くしい小鳥と同じ性質の物であつたからこんな思ひも自分にさせたのであると云ふのであつて、作者は単に手の美だけを云はうとしたのではない。どれ程現実の物以上に理想化してその恋人を思つて居るかを一端だけ云つて見せたのである。
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薔薇の散る低き音にもわななきぬ恋の心は臆せると似る
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 二人で居る時の心境とも、一人で居る時の心もちとも思へるのであるが、私は作者の意は二人の方であらうと見る。幽《かす》かな薔薇の花片の落る音が耳に入り、また相手も聞いたことを知つて居るのであるから、此の時は歓談も尽きて沈黙が二人を領して居たに違ひない。恋をする者は臆病者のやうに不安に慄かれる、今の幽かな音が相手の心を別な方へ向ける動機にはならなかつたであらうかと作者は怖れて居る。憐むべきやうではあるが実はこれも緊張した心の現れで臆病者と隣りしては居ても実質は違つてゐることも作者は知つてゐる。
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地下室のくらき灯のもと椅子七つ秘密結社に似たる歌会
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 私もこの席の一人であつたやうに思はれるのであるが、何時何処の会とまでは明瞭に記憶しては居ない。例の小さい帖を掌《てのひら》の上に載せて、口の中では句を練りつつ唱へて居た作者が、ふと目を上げて灯の暗いのに気が附いた時に、帝政時代の露西亜の小説によく書かれてあつた秘密結社を作る為めの寄り合ひのやうであると思つたのであらう。
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寂してふ世の常に云ふ言の葉も君より聞けば一大事これ
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 何処にでも使はれて居る寂しいと云ふ言葉も、恋人の口から聞かされる場合にはどれ程の衝動を受けることか、其れこそ一大事出来と云はねばならない。こんなに深く愛して居てもなお不足を感ぜしめるのか、環境に欠陥があるのか、恋人に寂しいと云はせる理由は何かと急速度に反省がされると云ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。
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堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ
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 情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、態《わざ》と調子構はずに云つてある所などは前の歌の技巧とは正反対である。
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溢るるは唯《た》だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川
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 是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。
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工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し
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 作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。然《しか》し其れは自分に向つて呼びかけてくれたものではない。同じ道を今日まで同一方向に歩いて居た男女は、今の音のため皆多少の血の気を頬に上らせて居るが、相変らず何処へ行つてよいか目的無しに自分は歩くばかりであると云ふ歌。
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知らぬ人われを譏《そし》ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ
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 自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。
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くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと
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 真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉では
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