註釈與謝野寛全集
與謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脆《もろ》い
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(例)今|総《すべ》て
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全集は上下二巻になつて居る。下巻の方に初期の作が収められて居るのであるから、歴史的に云へば註釈も下巻から初めねばならぬものかも知れぬが、故人の意を尊重して私はやはり初めに編まれたものを前にする。
炉上の雪二百八十六首は割書にもある如く大正元年から昭和五年に到る間の雑詠から成つて居る。
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炉の上の雪と題せりこの集のはかなきことは作者先づ知る
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人も時時大宇宙の精神になつて物を見る時があつて、不滅の火であることを信じて居る自身の芸術なども脆《もろ》い生命の持主である人間の物であればはかないに違ひないと感じる。其れを言葉にして云へば自身だけの謙遜になる。反語でなしに作者は云はうとした動機と、齎《もた》らす結果の相違を初めから予期して居た歌である。炉の上へ雪が降つて居るのではなくて、是れは暖炉の縁などへ雪の塊りが置かれて居て、じいじいと音がして解けて行く趣きである。私達が富士見町に居た初めの頃に、小さい庭の雪を集めて来て私はよく其れで物の形を彫つて遊んだ。炬燵の上でしたことであつた。人の顔などを彫つて気に入つた物の出来た時に、其物が当然解けて行く雪であることを思つて私の歎く愚かさからヒントを得たのかも知れない。
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太陽よおなじ処《ところ》に留まれと云ふに等しき願ひなるかな
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去り行く青春を惜《おし》む心である。これは空中の日の歩みを一つの所に留《とど》めて動くなと望むに斉《ひと》しい気持であると自嘲した。仮りて云ふものも最も適切なものであつたことが強い効果を挙げ得たのであると私は思ふ。また全体の調子ものんびりとして居て作者の恐れて居る初老の面影などは見えて居ない。
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ひんがしの国には住めど人並《ひとなみ》に心の国を持たぬ寂しさ
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住して居る所は確かに極東の日本であるが、自分の心には安住の国がない。他の人人を見ると誰れも自分のやうな焦慮はして居ないが自分には是れが苦しいと云ふのである。
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やうやくに自らを知るかく云へば人あやまりて驕慢《けうまん》と聞く
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此頃はやつと自分と云ふものが解つたやうな心境を得て居る。是れを自分は歌つて居るのであるがまま驕慢であるかのやうな誤解を受けると云ふのであつて、其事が並並の自覚と云ふものとは変つたものであることをも云はうとしたのである。
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白がちの桃色をして蓼の花涙ののちの頬《ほ》の如く立つ
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細かに見れば蓼《たで》の花は白混りの薄紅であるが、受ける感じは白がちの時色《ときいろ》である。作者は細かに見て居ないのではなく、女の顔の涙の後の色の斑《まだ》らな薄紅の美を聯想したことで其れを現して居るのである。野の蓼の弱弱しい、然《し》かも若さの溢れたやうな姿は作者の好んだ所である。
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蝶を見て恋を思ひぬその蝶を捉へつるにも逃がしつるにも
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目前に現れた蝶に由《よ》つて自分は恋愛と云ふものを考へさせられた。捉へ難いのを捉へ得た悦《よろこ》びにも、また手から逸してしまつた時の失望にもさうであつたと云ふので、美くしいと云はれる恋の本体を語つて居るのである。この歌などに作者の独特のよさを見るべきであらう。
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人の身の寂しき時は空を見て梢《こずゑ》も物を待つけしきかな
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是れは少し言葉が省略されてあるからよく読まねばならない。人間の寂しさ[#「寂しさ」は底本では「寂し」]を深く覚える日には、目の前の木立の梢なども自分の如く、寂しさに堪へ切れない、奇蹟でも現れて来るのを待つ外はないと天を遥かに眺めて居るものとより見えないと云ふのである。
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たそがれの青き光に半面を空に向けつつ泣ける石像《せきざう》
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青味のある夕明りの射《さ》して来る方へ半面を向けて居る石像は泣いて居ると云つたのであつて、その如く見えると云はず、其れであると云ふ手法を用ひたのである。女の像であることも説明なしに悟らしめたものである。私は佳い歌だと思ふ。
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不思議なりわが新しく切りて読む本のなかにも笑める君が目
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海を越えて仏蘭西の本の届いた場合であらう。紙切りで一方も二方も切りつつあるのは詩集か何かの本であるが、その中に遠い国で別れて来た恋人の目が笑みを含んで自分を見て居るやうに思はれるとはをかしいものであると云ふ歌。不思議と云ふやうな大袈裟な言葉を最初に使つて置いて、淡い戯れのやうで然《し》かも心から消し難い昔の恋人を軽く思ひ出した作である。
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狂ほしき恋の最後に誘《さそ》はずば止まじとすらん麝香撫子《じやかうなでしこ》
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カアネイションであるが、是れは現在の花ではない。前の歌の成つたのと同時に囘想した往事の一場面ではなかつたであらうか。心の上でだけ愛し合つて居たこの男女を到る処にまで到らしめないではおかないやうな劇《はげ》しい刺激を含んだ香のある撫子であると云ふ歌。
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べにがらと黄土《わうど》を塗りて手軽くも楊貴妃とする支那の人形
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大唐の楊太真も簡単な顔料を泥に塗つたもので現し得たやうに思つて居る隣人の稚気を云つたものであるが、形だけは歌に似たものも歌として通つて行く世の中を諷した作ではなからうか。
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わが前の河のなかばを白くして帆をうつしたる初秋《はつあき》の船
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作者は岸の家の階上に立つて居た。河は大江でもないが相当な水幅のあるものである。その河を半分まで白くして居ると云ふ所に誇張があるやうで実は河をより狭いものとして、この時の目に美くしく映る一点だけを説いて居るのである。初春初夏と別な音楽である初秋と云ふ言葉がよく利いて居る。
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磯の波うへに真珠《しんじゆ》を綴りたる舞衣《まひぎぬ》のごとまろく拡がる
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踊り子の真珠の飾りを沢山附けた白絹の裳《も》がぱつと拡がつたやうな渚の波であると云ふのである。波がしらの一つ一つが丁度舞姫などの幅の広い裾ほどの大きさを我我に見せることはよくあるが、この作者にかう云はれて初めて成程と気附く我我である。
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光る魚かの太陽は難くとも空に向ひて網は打たまし
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日と云ふ光の魚は捉へかねるかも知れぬが我等の網は他を考へずに彼れへ向けられねばならない、人間の理想は高きに置かなければならぬ、目標とするものは卑《ひく》いものであつてはならぬと云ふ覚悟を語つて居るのである。
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脣に銀の匙など触るる時冷たきもよし智慧の如くに
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作者は銀の匙《さじ》の冷たい感触が好きだと云つて居る。其れは丁度理智と云ふものが自分の感情の中で目を上げる時のやうな気持で嬉しいのである。併《しか》し知慧と云ふ物の本質は銀の冷たさを常に変へないものであるがと作者は微笑を含んで云つて居る。
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ためらはず宇宙を測る尺度《ものさし》にわれ自らの本能を取る
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何に由《よ》ることも誰れの学説に頼ることもなしに自分は何の躊躇もなく自分の本能を元にして宇宙を測ることをしようと自負して居る。
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ギリシヤの海に見るべき白鳥が家鴨《あひる》にまじる鵞鳥にまじる
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不運なこの白鳥は所を得て居ない。ギリシヤの海を遊び場所とせずに穢《きたな》い家鴨と混り、ある時は鵞鳥の仲間の如く自ら振舞つて居ると作者は自身の悲みを述べて居るのである。
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音も無く黒きころもの尼達が過ぎたるあとに残る夕焼
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仏蘭西か伊太利亜の大寺院の庭を、何等の音響も立てずに、黒い喪衣を著た尼達が一列を作つて通つて行つた。その後に赤い夕焼が西の方に望まれると云ふので、息も出来ぬまでに鬼気が身に迫るやうな歌である。寺院の壁も屋根も木立も黒ずんで居るが其れは尼達の衣ほどの黒ではないから云はないのである。夕焼も余りに広く拡がつて居ないと見る方がよい。
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誰れよりも唯《た》だ逸早く走らんとして躓《つまづ》ける流れ星かな
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其れはかうである。自分と同じ流星なのであると作者は云ふ。あの星は他の追随するのを厭つて真先きに駈け出さうとして失敗しただけである。安全に以前からの位置を失はずに居る星に比べて彼れに欠陥はなかつた筈《はず》である。これは軽い調子に出来て居て流星を云ふのに適した形がとられてある。
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痛きまで心を刺しぬ桃色の薊《あざみ》と云ひて君を憎まん
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心のうづく程の深い恋の印として残る人だから、その人を花と云ふならば薊であると云はう。然《し》かも美くしい桃色の薊だと云つて居よう。憎まうとは愛しようと云ふのである。
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自らの花を惜めるこの蔓《つる》は空に咲かんと攀《よ》ぢ昇り行く
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何時までも花を見せようとせぬ此の蔓草の志す所は天にあるらしく、其処へ達して初めて花を開かうと思つて居ることを、際限なく上へ上へと蔓を伸して行く風なので気が附いたと園の主人は歎息してゐる。その主人は詩人で、宜しい環境に置かれて居ない為めに、創作の興を失つて居ながらも理想だけはずんずん高くなつて行く自分と、この蔓草に共通なもののあるのを感じてゐるのである。
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大いなる救ひ主には逢はねども一人寂しく泣けばなぐさむ
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宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分は唯《た》だ一人で寂しく泣くことをすると心が和《なご》み、慰めが得られる。泣けば不快な世の中にも静かな諦めが生じると云ふ悲しい歌。
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木《こ》隠れてある星よりも哀れなり広場の上の白き夕月
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自分はつつましく木の枝に光の半を被《おほ》ふ風な星に対してよりも、著《あら》はに自らを投げ出して、正しい批評と云ふものがどれほど身に痛くても甘んじて受けようと云ふ勇気の見える白い夕月の方に愛が多く持たれると云ふのである。広場の上と云つて、中空にある月の孤独の清光が誰れの目にも附くのを示してゐる。
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一切を蔑《な》みせんとせしわが憎み君に及びて破れけるかな
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一切の現実を否定しよう、蔑視しようとした人生に対する憎悪は、一念恋人に及んだ時に破れてしまつたと云ふのである。この憎悪を自殺の形式で現はさうとしたとまでは解釈せぬ方がよい。ある瞬間の気持ちなのである。
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世界をばひかりの網に入れて引く今朝の裸《はだか》の海の太陽
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我我の棲息する陸地をば総《すべ》て皆光明の網を以て手許へ引き寄せようとする海上の日と見える。
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