マルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。
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時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京
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時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。
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外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする
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これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を被《おほ》はうとした刹那に、某年某月の旅に嘗《な》めた異境での悲みが突然心に蘇《よみがへ》つたのである。
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