しぬ桃色の薊《あざみ》と云ひて君を憎まん
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 心のうづく程の深い恋の印として残る人だから、その人を花と云ふならば薊であると云はう。然《し》かも美くしい桃色の薊だと云つて居よう。憎まうとは愛しようと云ふのである。
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自らの花を惜めるこの蔓《つる》は空に咲かんと攀《よ》ぢ昇り行く
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 何時までも花を見せようとせぬ此の蔓草の志す所は天にあるらしく、其処へ達して初めて花を開かうと思つて居ることを、際限なく上へ上へと蔓を伸して行く風なので気が附いたと園の主人は歎息してゐる。その主人は詩人で、宜しい環境に置かれて居ない為めに、創作の興を失つて居ながらも理想だけはずんずん高くなつて行く自分と、この蔓草に共通なもののあるのを感じてゐるのである。
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大いなる救ひ主には逢はねども一人寂しく泣けばなぐさむ
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 宗教家の云ふやうな救世主とか、大慈大悲の仏菩薩とかには出逢はないでも、自分は唯《た》だ一人で寂しく泣くことをすると心が和《なご》み、慰めが得られる。泣けば不快な世の中にも静かな諦めが生じると云ふ悲しい歌。
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木《こ》隠れてある星よりも哀れなり広場の上の白き夕月
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 自分はつつましく木の枝に光の半を被《おほ》ふ風な星に対してよりも、著《あら》はに自らを投げ出して、正しい批評と云ふものがどれほど身に痛くても甘んじて受けようと云ふ勇気の見える白い夕月の方に愛が多く持たれると云ふのである。広場の上と云つて、中空にある月の孤独の清光が誰れの目にも附くのを示してゐる。
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一切を蔑《な》みせんとせしわが憎み君に及びて破れけるかな
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 一切の現実を否定しよう、蔑視しようとした人生に対する憎悪は、一念恋人に及んだ時に破れてしまつたと云ふのである。この憎悪を自殺の形式で現はさうとしたとまでは解釈せぬ方がよい。ある瞬間の気持ちなのである。
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世界をばひかりの網に入れて引く今朝の裸《はだか》の海の太陽
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 我我の棲息する陸地をば総《すべ》て皆光明の網を以て手許へ引き寄せようとする海上の日と見える。太陽と云ふ大力のその男は逞《たく》ましい裸体で、健康さうな赤い皮膚を持つてゐると作者は見た。面白い歌である。
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大詰のあとに序幕の来ることただ恋にのみ許さるるかな
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 最後の破綻と見なすべき事があつて、更らにまた初めの甘い相思が帰つて来る。他の事には見難いこの形式を人も見て疑はないのは恋愛にのみ限られた事であると云ふ歌。
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我が涙はかなく土に消ゆべきや否否人と云ふ海に入る
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 寂しく土に沁み込んで行くのを見る外もない自分の涙であらうか、さうは見えるであらうが事実は違つて居る。この涙を受けて呉れるのは海ほど広大な恋人の心であると云つてある。此処で人と使つてある言葉は、恋とか君とか云ふ方が解り易くはあるが、其れでは作者のねらつた重さが現れない。温い人間と云ふものの中の代表者である彼の人と云ふ事はこの一語で云ひ尽くされてゐるやうに私は思ふ。
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巴里にて夜遊びしつつ覚えたるよからぬ癖の嗅《か》ぎ煙草かな
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 作者の居たモンマルトルの宿は下宿人にマダムと云はれてゐる一人身の女が幾人か居て、其の人達も宿の主婦も嗅煙草の銀の小箱を持つて居たことは私も見たが、作者は私よりも長くその家に残つて居た間に、女達が嗅煙草をそれぞれ鼻の内側に塗りながら無駄話に夜を更かす客室にも居て、自身も嗅ぎ試みたことがあつたかも知れぬが、これは異邦で一時的の遊蕩子になつて居た人の、日本に帰つた当座の気持ちと云ふやうなものを創作して見たものと思はれる。作者の生活ではない。
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時として異邦に似たる寂しさをわれに与へて重き東京
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 時時は万里の孤客であるやうな寂しさを自分に持たせる重苦しい帝都であると悲んだ歌。
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外套の襟を俄かにかき合せさし俯向けば旅ごこちする
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 これは前の歌とは違つた。ある日の途上で感じた淡い哀愁が歌はれてある。その時までは何とも思はなかつたが、衣服の端で寒い外気を被《おほ》はうとした刹那に、某年某月の旅に嘗《な》めた異境での悲みが突然心に蘇《よみがへ》つたのである。
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