が新しく切りて読む本のなかにも笑める君が目
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 海を越えて仏蘭西の本の届いた場合であらう。紙切りで一方も二方も切りつつあるのは詩集か何かの本であるが、その中に遠い国で別れて来た恋人の目が笑みを含んで自分を見て居るやうに思はれるとはをかしいものであると云ふ歌。不思議と云ふやうな大袈裟な言葉を最初に使つて置いて、淡い戯れのやうで然《し》かも心から消し難い昔の恋人を軽く思ひ出した作である。
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狂ほしき恋の最後に誘《さそ》はずば止まじとすらん麝香撫子《じやかうなでしこ》
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 カアネイションであるが、是れは現在の花ではない。前の歌の成つたのと同時に囘想した往事の一場面ではなかつたであらうか。心の上でだけ愛し合つて居たこの男女を到る処にまで到らしめないではおかないやうな劇《はげ》しい刺激を含んだ香のある撫子であると云ふ歌。
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べにがらと黄土《わうど》を塗りて手軽くも楊貴妃とする支那の人形
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 大唐の楊太真も簡単な顔料を泥に塗つたもので現し得たやうに思つて居る隣人の稚気を云つたものであるが、形だけは歌に似たものも歌として通つて行く世の中を諷した作ではなからうか。
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わが前の河のなかばを白くして帆をうつしたる初秋《はつあき》の船
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 作者は岸の家の階上に立つて居た。河は大江でもないが相当な水幅のあるものである。その河を半分まで白くして居ると云ふ所に誇張があるやうで実は河をより狭いものとして、この時の目に美くしく映る一点だけを説いて居るのである。初春初夏と別な音楽である初秋と云ふ言葉がよく利いて居る。
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磯の波うへに真珠《しんじゆ》を綴りたる舞衣《まひぎぬ》のごとまろく拡がる
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 踊り子の真珠の飾りを沢山附けた白絹の裳《も》がぱつと拡がつたやうな渚の波であると云ふのである。波がしらの一つ一つが丁度舞姫などの幅の広い裾ほどの大きさを我我に見せることはよくあるが、この作者にかう云はれて初めて成程と気附く我我である。
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光る魚かの太陽は難くとも空に向ひて網は打たまし
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 日と云ふ光の魚は捉へかねるかも知れぬが我等の網は他を考へずに彼れへ向けられねばならない、人間の理想は高きに置かなければならぬ、目標とするものは卑《ひく》いものであつてはならぬと云ふ覚悟を語つて居るのである。
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脣に銀の匙など触るる時冷たきもよし智慧の如くに
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 作者は銀の匙《さじ》の冷たい感触が好きだと云つて居る。其れは丁度理智と云ふものが自分の感情の中で目を上げる時のやうな気持で嬉しいのである。併《しか》し知慧と云ふ物の本質は銀の冷たさを常に変へないものであるがと作者は微笑を含んで云つて居る。
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ためらはず宇宙を測る尺度《ものさし》にわれ自らの本能を取る
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 何に由《よ》ることも誰れの学説に頼ることもなしに自分は何の躊躇もなく自分の本能を元にして宇宙を測ることをしようと自負して居る。
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ギリシヤの海に見るべき白鳥が家鴨《あひる》にまじる鵞鳥にまじる
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 不運なこの白鳥は所を得て居ない。ギリシヤの海を遊び場所とせずに穢《きたな》い家鴨と混り、ある時は鵞鳥の仲間の如く自ら振舞つて居ると作者は自身の悲みを述べて居るのである。
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音も無く黒きころもの尼達が過ぎたるあとに残る夕焼
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 仏蘭西か伊太利亜の大寺院の庭を、何等の音響も立てずに、黒い喪衣を著た尼達が一列を作つて通つて行つた。その後に赤い夕焼が西の方に望まれると云ふので、息も出来ぬまでに鬼気が身に迫るやうな歌である。寺院の壁も屋根も木立も黒ずんで居るが其れは尼達の衣ほどの黒ではないから云はないのである。夕焼も余りに広く拡がつて居ないと見る方がよい。
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誰れよりも唯《た》だ逸早く走らんとして躓《つまづ》ける流れ星かな
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 其れはかうである。自分と同じ流星なのであると作者は云ふ。あの星は他の追随するのを厭つて真先きに駈け出さうとして失敗しただけである。安全に以前からの位置を失はずに居る星に比べて彼れに欠陥はなかつた筈《はず》である。これは軽い調子に出来て居て流星を云ふのに適した形がとられてある。
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痛きまで心を刺
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