が甘たれて「我が」とは別な意が出来たのである。さて作者は友の玄耳に深い同情を寄せて居る。蘭を此頃愛して居ると云ふのは、離れて住む情人が遣瀬なく恋しくなる時の心の慰めに過ぎない。蘭に気分を紛らせて居るのであると憐んでゐる。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
穀倉《こくぐら》の隅に息《いき》づく若き種子《たね》その待つ春を人間もまつ
[#ここで字下げ終わり]
 今日は暗い穀物倉の隅に納められて居て、吐息をつきながらも来るべき春を待つ思ひに心の燃えて居る何かの生き生きした種子、其れと同じ心もちで未来の光明を待望する人間がある。尠くも自分はさうした人間であると作者は語つて居る。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
幼な児が第一春と書ける文字太く跳《は》ねたり今朝の世界に
[#ここで字下げ終わり]
 是れは末女の藤子が或年の春の書初めに、半切《はんせつ》の白紙へ書いた字である。第も春も大人には不可能に思はれる勢ひで跳ねが出来て居た。作者はこの大胆さが嬉しかつたのである。自分等の新しい春はこの子に由《よ》つて強められた。整然とした正月の朝の家が更らに活気づいたと喜んで居る。此処の世界は家の中を中心としたやや狭い意味。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
止まりたる柱時計を巻きながらふと思ふこと天を蔑《な》みせり
[#ここで字下げ終わり]
 今まで止まつて居た柱の時計の螺旋《ねじ》を巻きながらふと自分は大それた事を思つた。其れは自然の則も無視することの出来るやうな力が自分の内に充満してゐることを信じたのであつた。つまり時の流れなどは何んでもないのであると云ふやうな思ひがしたのである。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
沈黙《ちんもく》を氷とすれば我があるは今いと寒き高嶺《たかね》ならまし
[#ここで字下げ終わり]
 無言で居る境地を氷に譬《たと》へるならば、今自分が居る所は氷雪に満ちた寒い高山の絶頂と云ふべきであると云つて、暗に認識不足な世間に対して、云ふべきを云はず黙して立つ者は、骨も削づられるばかりの冷寒の苦を味はつて居るのを云つて居るのであらう。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
自らを恋に置くなりしら玉よ香る手箱にあれと云ひつつ
[#ここで字下げ終わり]
 今や自分は恋愛三昧の人である。白玉にも譬《たと》へたい自分の置場を、他の傷つき易い所に置きたくないからで馥郁《ふくいく》たる香を湛へて名利の外にある恋だけはよく自分を安らかならしめるであらうとかう定めて居ると云ふ意。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
辻に立ち電車の旗を振る人もいしく振る日は楽しからまし
[#ここで字下げ終わり]
 これはまだ交通の信号燈などの出来なかつた時代の東京の街上風景に得た感想である。水道橋とか、神保町とかの四つ角に立ち青旗、赤旗を振つて居る人は、みじめな仕事をして居ながらも旗の振りやうが思ひ通りに巧みに出来た場合は、自分等に良き創作の出来た時と変らない満足感があるであらうと云ふのであつて、高村光太郎氏の歌に屋後切《やじりきり》が巧みに門戸の閉りを切つた跡を見ると、是れも芸術であると云ふやうな気がされると云ふのがあつたのは、彫刻の刀を取られる同氏の作であるだけ、さうした巧みな物があつたのに誰れも気附かぬ美を発見して教へられたものとして私は記憶して居るが、是れは創作の楽みが其処に認められると歌はれて居るのである。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
女みな流星よりもはかなげにわが世《よ》の介《すけ》の目を過ぎにけん
[#ここで字下げ終わり]
 西鶴の好色一代男の主人公(ここの「我が」は自分が愛して居るのではなく、作者の西鶴が愛して居ると云ふ意)が相手にした多くの女達はどれも空の流星の如く世の介の目に一時的な光を投げ得ただけの価値よりないものであつて、次次ぎに消えて行つたと取り為すべきであらう。彼れをして終生変らぬ執著を持たしめる女は無かつただけで、必ずしも世の介を軽薄と云ふべきでないと云つてある。作者の自己弁護が少しは混つてゐるかも知れない。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
自らを愛づるこころに準らへてしら梅を嗅ぐ臘月《らふげつ》の人
[#ここで字下げ終わり]
 早く十二月に咲いた白梅の花の香を自分自身を賞美すると云ふのに近い気持ちで嗅いで居る。自分は白梅の清香に類したものを内に蔵して居るから殊更この花を愛すると云つて居るのであつて、人は作者自らである。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
地の上に時を蔑《な》みする何物も無きかと歎く草の青めば
[#ここで字下げ終わり]
 この大地には自然が押しつけて約束したことに違背する勇気のあるものは何も無いのであらうか、とこんなことを自分は春になつて、毎年の例のやうに若草が青む時に思ふと云ふのであつて、何事
前へ 次へ
全12ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング