なく、其れよりは細くて優しい桜のもみじであるやうに思はれる。美くしいとは云つてないが、其れは十分に読者の胸へ伝へられてゐる。
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わが機《はた》に上《のぼ》せて織れば寂しさも天衣《てんい》の料《れう》となりぬべきかな
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詩人である自分が心に摂取すれば、普通人には苦痛であるべき寂寥も勝れた創作を成就させる一分の用に立たせることが出来ると云ふのであつて、これには作者の自信が十分に盛られてある。
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啼きに啼くあさまし長しかまびすし短き歌を知らぬ蝉かな
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何と何時までも啼き続ける蝉であらう。何と云ふ饒舌な蝉であらう、やかましい、うるさい、彼等は自分等が僅かな三十一文字で複雑な感情を簡潔に余すなく述べるやうな技術を持たないのである。憐むべき蝉だと云つてある。蝉はそんなものであるが、その声を聞く作者の心には無駄な文字を多く費すだけで、効果の少い拙い長詩を作る人達を歯がゆく思ふ所があつたのであらう。
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騒音は猶しのぶべし一やうに労働服を著たるさびしさ
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これも象徴歌である。ソビエツトの都会を見たもののやうに云つてあるが、作者の意はあの下品な騒《さわが》しい物音まではまだ辛抱も出来るが、誰れ一人変つた服装をした者のない労働服ばかりの人の群を眺めて居なければならないことは実に不幸であると云つて、文学の平俗化、多衆化を悲しんでゐる。
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憂きときは薔薇をば嗅ぎてうち振りぬ胸に十字を描《か》く僧の如
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悲しい気もちの起る時は薔薇を嗅いで、其れから薔薇の花を手で振つて見るのが自分の癖である。事に触れては天主の名を唱へて十字を胸に描く宗教家の如く、これは最も神聖な気分でしてゐることであると云ふ歌。薔薇であるために、恋人のことは云つてないがこの花を嗅いで、僧が神の幻を追ふやうに作者の思つて居るものは若い美くしい芳しいものの面影に違ひない。
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エルナニの恋のうたげに恐しき死の角笛《つのぶえ》の響きくるかな
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ユウゴウのエルナニと云ふ劇の演ぜられるのを私も一度故人と一所に仏蘭西座で見物した。作者は其れが好きで猶《なほ》何度か見たと云つてゐた。私は以前に小山内薫氏の訳で読んで筋を知て[#「知て」はママ]ゐたから、この芝居は割合楽に見物することが出来た。故人もさうであつたであらう。エルナニは恋敵に或る不始末を見られた贖《あがな》ひとして、何時でも望みの時に命を遣らうと云ふ約束をしておいたが、大詰の城内の結婚式後の宴会の場で、命を望む時に吹かれることになつてゐる角笛の音がして来る、相抱いて恐怖に慄《おのの》く新郎新婦の前にやがてその老人が現れて来て、命を受取ると云ひ、二人は苦悶しながらも毒を飲んで死んで行くのであるが、西斑牙の昔ばかりでなく、かうした禍ひに我我の運命もしばしば脅かされることを作者は歎いてゐるのであつて、恋と云ふ言葉はあつても、其れは幸福と云ふのに代へてあるだけで恋の歌ではない。
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磨かんとして砕けたるそののちは玉の屑《くず》ぞと云ふ人も無し
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磨かうとして過つて砕いた玉に相違ないが是れが玉の屑であつて、小石ではないことを誰れも認めようとしない。曇つたままで置けば玉であることは疑はれなかつたであらうがと作者は思つて云つて居るらしいが、意地の悪い世間は必ずしもさうとは云はなかつたであらう。不幸な作者よ。
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人の見て沙の塔とも云へよかしはかなき中《なか》に自らを立つ
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好意を持たぬ人間から、是れは永久性のない沙の塔であると云はれても構はない。貧しい生活はしながらも独自の人生観を芸術に托して云はうと努める者は自分であると云ふ歌。
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我が玄耳蘭を愛することをしぬ遠方《をちかた》びとを思ひ余りて
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故人澁川玄耳氏が山東省の青島に居られた頃に、愛養の百種の蘭を写真にして送られた。玄耳子は愛人を東京に置いて行つて居られたのである。この場合の「我が」には我が親愛なると云ふ意が含められてある。「我が君」、「我が国」、「我が妻」も単に自分のと云ふだけではないのである。近来は「吾子《あこ》」と言葉を無暗《むやみ》に使用する人もあるが、あれはまた「可愛いい子よ」と呼び掛ける言葉であつて、源氏の中の会話に「あが君」と云つてある所は殊更媚びて云ふ必要のある場合に限られてある。自尊心のある男女の会話には無い。調子
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