云ふのもなければならぬ説明である。
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取らんとて逃ぐるを恐る美くしき手は美くしき小鳥なるべし
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 恋人の手を取らうとした刹那に、この自分の手が其処へ行くまでに飛び立つてしまはないであらうか、取返しの附かぬ失望を次の瞬間から自分は味はねばならないのではなからうかと恐れた。美くしい手と云ふ物は美くしい小鳥と同じ性質の物であつたからこんな思ひも自分にさせたのであると云ふのであつて、作者は単に手の美だけを云はうとしたのではない。どれ程現実の物以上に理想化してその恋人を思つて居るかを一端だけ云つて見せたのである。
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薔薇の散る低き音にもわななきぬ恋の心は臆せると似る
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 二人で居る時の心境とも、一人で居る時の心もちとも思へるのであるが、私は作者の意は二人の方であらうと見る。幽《かす》かな薔薇の花片の落る音が耳に入り、また相手も聞いたことを知つて居るのであるから、此の時は歓談も尽きて沈黙が二人を領して居たに違ひない。恋をする者は臆病者のやうに不安に慄かれる、今の幽かな音が相手の心を別な方へ向ける動機にはならなかつたであらうかと作者は怖れて居る。憐むべきやうではあるが実はこれも緊張した心の現れで臆病者と隣りしては居ても実質は違つてゐることも作者は知つてゐる。
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地下室のくらき灯のもと椅子七つ秘密結社に似たる歌会
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 私もこの席の一人であつたやうに思はれるのであるが、何時何処の会とまでは明瞭に記憶しては居ない。例の小さい帖を掌《てのひら》の上に載せて、口の中では句を練りつつ唱へて居た作者が、ふと目を上げて灯の暗いのに気が附いた時に、帝政時代の露西亜の小説によく書かれてあつた秘密結社を作る為めの寄り合ひのやうであると思つたのであらう。
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寂してふ世の常に云ふ言の葉も君より聞けば一大事これ
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 何処にでも使はれて居る寂しいと云ふ言葉も、恋人の口から聞かされる場合にはどれ程の衝動を受けることか、其れこそ一大事出来と云はねばならない。こんなに深く愛して居てもなお不足を感ぜしめるのか、環境に欠陥があるのか、恋人に寂しいと云はせる理由は何かと急速度に反省がされると云ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。
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堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ
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 情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、態《わざ》と調子構はずに云つてある所などは前の歌の技巧とは正反対である。
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溢るるは唯《た》だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川
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 是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。
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工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し
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 作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。然《しか》し其れは自分に向つて呼びかけてくれたものではない。同じ道を今日まで同一方向に歩いて居た男女は、今の音のため皆多少の血の気を頬に上らせて居るが、相変らず何処へ行つてよいか目的無しに自分は歩くばかりであると云ふ歌。
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知らぬ人われを譏《そし》ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ
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 自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。
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くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと
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 真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉では
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