かを起さないでは居られないやうな鬱勃《うつぼつ》たる不平がこの歌には見える。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
目を遣れば世の恋よりも何よりも燃えて待つなり片隅の薔薇
[#ここで字下げ終わり]
ふと室の一隅を見ると云ふ言葉で、その時まで作者は或る思ひに懊悩してゐたことが解る。其処には血の燃え立つ色を見せた薔薇の花があつた。世と云ふのは世の人間のと云ふ意である。其れは自分が対象にしてゐる恋人の生温るさには似ない熱意を見せて自分の近づくのを待つ薔薇ではないかと云ふのと同時に作者は溜息を洩《もら》した。待つと云ふ言葉も逢ひたさを云ひ遣つた人の返事が思ふやうな物でなかつた為めに出た言葉ではあるまいか。何よりもはその外の一切の物よりもと云ふのであるが大して其れを強くは云つて居ない。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
この国に呟《つぶや》くことをふと愧《は》ぢぬ冬もめでたき瑠璃《るり》の空かな
[#ここで字下げ終わり]
日本に居て猶《なほ》不足がましく歎息などをしてゐる自分を見出して愧ぢた。冬と云ふのにこの冴えた瑠璃色の空はどうであらう。巴里の冬は毎日陰鬱に曇つて居たではないか、東方の恵まれた自然の中に居る自分ではないかと作者は思つたのである。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
美くしき心を空に書きたれば明星は打つ金《きん》のピリウド
[#ここで字下げ終わり]
自分は夕方の大空を見て清い恋を思つて居た。美くしい言葉にして其れを青色の広い広い紙にも書く自分であつた。この時に出て来た明星は自分の文章に黄金《きん》色の句点を打つたと云ふ歌。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
わが額《ぬか》を鞭《むち》もて打つは誰がわざぞ見覚めて見れば手の上の書《ふみ》
[#ここで字下げ終わり]
ぴしりと自分の前額を打つ者があつた。誰れからこの咎《とが》めを受けたのであるかと目を醒《さま》して考へて見ると、其れは手の上に置いた書物から受けた譴責であつたと云ふのである。作者は全く眠つて居たのではない。夢を見て居たのでもない。瞑目して暫時自己を忘卻して居たのも、既にこの良き書から発せられた警告の為めであつた。是れに接するまでの愚かな自分を鞭打ちたく思つたのはもとより作者自身であつた。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
大いなる傘に受くれば一しきり跳《をど》れる雨も快きかな
[#ここで字下げ終わり]
大きい傘の拡げられた刹那にばらばらと降りかかる雨が上に跳つてゐるやうな快感が覚えられた。雨も新味と変化とを喜ぶ自分達の心と同じであると云つてある。之れは夏の日の雨らしい。寒いことなどは思はれない。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
世の隅に涼しき目をば一つ持ち静かにあらんことをのみ思ふ
[#ここで字下げ終わり]
善悪と美醜のけぢめに正しい判断力を備へた自分を守つて、世の表面などには出ず、人目につかぬ片隅で静かな存在としてあることが幸福であらうとばかりこの頃は希《ねが》はれる自分であると云ふ歌。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
時の波絶えず寄せ来て人の身をはてなき沙に埋めんとする
[#ここで字下げ終わり]
止む間もなく押し寄せてくる時と云ふ波はこの世のどの人間をも寂しい死の沙に埋めようとして居る。こんな戦慄をする時のある作者であつた。私は作者が寂しい無色の沙へ永久に埋歿されたとは思はない。私が故人を思ふだけの心でさへ百彩の錦をなして居ると信じて居る。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
猶しばし昨日の夢にかかはりぬ覚めぎはの目の甘くおもたく
[#ここで字下げ終わり]
忘れ去るべき人であると自分の理知が命ずる儘に違背しようとはして居らぬが、自分の感情の殆《ほとん》ど全部はまだその恋が占めて居る。楽しい夢を見た良き朝の目の覚めぎはの気もちとも云ふやうな、半睡時の甘美さと重苦しさを感じる者は自分であると云ふのである。約束された覚醒が近づいて来るのを恐れて居るのでもないのである。相当に複雑な気もちがよくも短く表現が出来たものであると私は思ふ。昨日と云ふ言葉なども簡単に使つてあるのではない。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
とばりより君覗くなり水色の矢車草《やぐるまさう》を指にはさみて
[#ここで字下げ終わり]
自分が下を通つて行く時に窓のカアテンの間から恋人が外を覗いて居た。水色の矢車の花を指と指の間に狭みながらと云ふのであつて、是れは日本婦人の習慣に其れ程無く、異国の婦人には有り勝ちな媚態を作つて居たことが思はれる。巴里の宿の前の庭に矢車草の沢山咲いて居たこともこの歌から私は目に見えるやうに思はれる。
[#ここから2字下げ、22字詰め]
もろともに花をかざして若き日はまたなしとしも歎きつるかな
[#ここで字下げ終わり]
是れも同じ人を追想し
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング