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 自分が何故に無視されてゐなければならぬかを世間に対して問つてやりたい心持ちも、何時となくどうでも好い気になつた、従つて憎みも悲みも忘れた今の心境は静かである。この空虚は愛すべきものであると云ふ歌。もとより是れは作者自身だけが空虚と呼んでゐる空虚なのである。
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うきことは思はぬ如く馳せながら薔薇を散らしぬ曲馬の女
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 人間である以上、然《し》かもあの境遇にゐる以上持つてゐない筈《はず》のない悲みを忘れたやうに感じないやうに馬上から薔薇の花を撒いて居る曲馬乗りの女よと云つてある。是れも作者は日本で見た曲馬ではなく、郷愁を抱きながら巴里の旅先で見た曲馬らしい。
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その中に白き孔雀の誇りもて長く引きたる夕ごろもかな
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 仏蘭西座の廊下を往来する貴婦人達の中の特に目立つ一人を作者は歌つたのであるが、そんな場所でなく、或る大邸宅の夜会場で思ふ人が誰れよりも素ばらしく、白い衣装を著けて現れて来たやうな解釈が出来ないこともない。作者が巴里に居た頃の女の夜の服は四五尺も裾を引くのが多かつた。白い孔雀が鳥の王のやうな誇りを持つて居るのと、其の人の外へ現れた自尊心に共通なものがあつたのである。
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我が筆もミケランゼロの鑿《のみ》のごと著くるところに人をあらはせ
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 巨匠ミケランゼロの鑿の当てられるものは岩も木も生命のある人になつたと云ふが、自分の筆もさうでありたい。一度び書かうとすれば遺憾なく万象が詩になるやうにありたいとかう作者は望んである。
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いろいろの波斯《ペルシヤ》のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑
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 松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
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我が手もて捉ふることの難しとはなほ願《ねがは》くは知らであらまし
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 自分の力ではどんなに最善を尽くしても得られぬ望みであると云ふ
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