銀座の雪の上へ家の入口の灯の明りが末広がりに扇の形をして射《さ》して居ると云ふのであるが、唯《た》だの家とは内容の異つたカフエエの灯であることで、内の濃彩と外の淡彩で好い諧調が構成されてゐるやうに思はれる。早春の雪に違ひない。作者はカフエエの中から見てゐることは云ふまでもない。
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若きむれ酔ひて歌へば片側の卓にある身もおもしろきかな
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作者と片隅の卓へ一所に倚つて居る人達を云ふのでなく、彼方此方に一団一団になつて居る若い連中があるのである。酔つて歌ひ出すまでにも其の人達の歓語が耳を喜ばせて居た。
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なほ注《つ》げと低き声しぬ誰れ待ちて隅の卓なる白きうなじぞ
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「もう一つ」と女は低い声で云つて、ギヤルソンに卓上の杯《さかづき》を指して居た。この時刻に此処で逢ふ約束の人を待ちかねて居る様子が、顔を外へ見せぬやうにして俯向いた美くしい白い頸附きに見える。と云つて作者は待たれる男の幸福に多少の羨望を感じて居ることも見せた歌である。是れは銀座にゐて遠い巴里と古い記臆を幻に描いた作である。言葉を態《わざ》と省略して頸の形だけを云つて女の気もちを其れに托してある。
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君により初めて明日の歌を聞く凍れる中の春のおとづれ
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吉田精一氏の歌集春の口笛の序に詠まれた歌の一つである。この作者に由《よ》つて自分は初めて未来の世界を見ることが出来、明日の詩を聞くことが出来た。自分達の周囲は今|総《すべ》て凍《い》て附いてしまつてゐる。こんな時に春の訪れを持つて来てくれた歌集であるから嬉しいと云ふのであつて、集の名の笛を離れずに所信が叙べられてある。
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にはかにも松を通して朱をながす夕日の中の街道の雨
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夏の変調な天気らしい。東海道の藤沢辺の街道を少し奥へ入つた家から作者は見て居るやうである。古い並木の松であるから大木が列をなしてゐて、足柄辺りへ入る日が赤い夕焼を作つてゐる空が背景になつて居る。この街道の上に今雨が降つて居るのである。相当に烈《はげ》しい雨らしく思はれる。
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何故と世に問ふことを忘れたるうつろの心しづかなるか
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