されている今日なお依然として国民の上に立ち、平氏と源氏、新田氏と足利氏の関係を以て対峙《たいじ》しております。彼らは国民の利害と国家の消長とを口実にしながら、実は政権の争奪を以て主要な目的としております。直截《ちょくせつ》にいえば、どの政党も皆官僚の変形であって、官僚が政党を罵《ののし》り、政党が官僚を罵るのは鴉《からす》が互に色の黒いのを罵るのに等しく、笑うべきことであるのです。私は秉公持平説を口にする寺内、後藤二氏が憲政会ばかりを政権争奪者として悪罵し、政友会を専ら誠意に富んだ政党であるかの如く曲庇《きょくひ》した偏頗《へんぱ》の沙汰《さた》を陋《ろう》とします。それよりも先ず寺内内閣みずからが政争を超越した公明な政治家の集団であることを政見において証明せねばならない順序であるのに、二氏の演説が一言もそれに及ばないのはどういう訳でしょうか。
政争の上に超越した政治家の心事はロマン・ロオランがこの度の戦争から超越して世界人類のために博愛正義の宣伝に努めている如く、真に国民の味方たる志士仁人の熱烈な心情に満ちているべきはずですが、寺内、後藤二氏の言論には政敵を圧迫する争気と殺気とが横溢《おういつ》しているだけで、国民の味方としては何らの表示をも認めることが出来ません。政見を欠くことにおいて浅薄であり、国民の意志を眼中に置かないことにおいて専制的であり、政敵を悪罵し狡獪《こうかい》なる御用党を曲庇することにおいて野卑であると思います。それでは秉公持平の正反対に、みずから政争の有力な選手になって反対党の敵意を挑発し、復讐として肉を噬《くら》い髄を啜《すす》るとも飽かないような深怨を結ばせて、ますます陰険、醜陋、残忍を以て終始する政界の私闘を助長する危険があると思います。
また私の厭《いと》わしく思うことは、寺内内閣に反対する党人たちの言論が理性を基礎としないで感情的に傾き、寺内内閣の徒のみが非立憲的であり官僚主義者であるような不公平、不徹底な立論を敢てし、一朝政権を握れば憲政会自身がまた官僚主義者たることにおいて同じ穴の貍《むじな》であることを掩蔽《えんぺい》し、寺内、後藤二氏から受取った悪罵以上の悪罵を以て酬《むく》いながら、国民の前に怖るべき虚偽を述べつつあることです。彼ら党人の論調の粗笨《そほん》乱暴であることは往年の憲政擁護運動時代における慷慨《こうがい》殺
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