必ず現代の自由思想を背景とする所がなくてはなりません。二氏の「秉公持平《へいこうじへい》の善政」というのは何らの具体的政見も伴わない支那流の空名虚辞に過ぎないのですからまだ少しも政論の域に入っていないものだと思います。一体に我国のいわゆる政治家は在朝在野ともに、厳格にいえば感情論ばかりで、確かな学説と実験とに立脚した鮮明な政見を持っている場合は極《きわめ》て稀なのですから、これを二氏に望むことは気の毒にも感ぜられますが、人情論の中の最も旧式な人情論――無内容な秉公持平説――を持出しながら、それさえも立派な政見のように標榜するとは余りに国民を愚弄したものだと思います。
 私たち婦人の自由な位地からいえば、政権の争奪を以て目的としていることは官僚も、政友会も、憲政会も全く同じです。国民党にしても、その少数党の微力を以て到底容易に政権に近づきがたい所から、その党首の機智的命令に従い、自暴半分に唯だ奇兵を用いて国民の耳目《じもく》を惹《ひ》こうとし、この度の不信任案提出は実にその奇兵の功を奏したものに外ならないのですが、久しく逆境にあるの故を以て国民党を政権の争奪に冷淡なものと見ることは出来ないのです。この意味において、我国には今日まで真の国民の味方となった政治家というものはありません。国民の真の味方は国民を以て赤子《せきし》とし、国民の休戚を以て大御心とせられる歴代の天皇があらせられるばかりです。我国の天皇が専制の君主にましまさぬことは、我々が太陽の光の博愛平等であるのを疑う余地のない如くに昭々たる事実です。政治家という政治家が悉く国民を凌辱する官僚主義者である証拠には、古来の政界の改造がすべて甲の官僚主義者と乙の官僚主義者との更迭《こうてつ》以外に何らの意味もなく、藤原氏の独占していた政権が平氏に移り、平氏がこれを源氏に奪われ、北条、足利、織田、豊臣、徳川の諸氏が次第にこれを奪って独占したという歴史があるので明白です。偶《たまた》ま豊臣氏のように微賤から出た政治家があっても新しい官僚政治家が一人殖えただけで、政治に対する国民の権利を官僚から取返してこれを国民に分配したというのではありません。
 代議政治は国民の一切が国民みずからの生活の幸福な発展を目的として、法律を制定すると共に、一切の政治を運用しかつ監督する権能を発揮する政体です。しかるに官僚と政党とは代議政治の採用
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