慣用語で云へば此|吹降《ふきぶり》は野分である。野分には俳諧や歌の味はあるが科学の味がない。勿論「野分の又の日こそ甚《いみ》じう哀れなれ」と清少納言が書いた様な平安朝の奥ゆかしい趣味は今の人にも伝はつて居るから、野分と云ふ雅《みや》びた語の面白味を感じないことは無いが、それでは此吹降に就ての自分達の実感の全部を表はすことが不足である。近代の生活には科学が多く背景になつて居る「呂宋を経て紀伊の南岸に上陸し、日本の中部を横断して日本海に出で、更に朝鮮に上陸す」と気象台から電報で警戒せられる暴風雨は、どうしても「台風」と云ふ新しい学語で表はさなければ自分達に満足が出来ないのである。

 清少納言は野分の記事の中に萩や女郎花の吹き倒されたのを傷ましがつて居るが、ダアリヤやコスモスの吹き倒される哀れさは知らなかつた。おなじ草花でも彼と是とは感じが異ふ。今の人は歴史的な萩や女郎花の趣も知つて居る上に、舶載の花の新味も知つて居るのであるから、今の台風は昔の野分に比べて趣味の点から云つても内容が複雑になつて居る。新しい詩人は台風を歌つて屹度歌や俳諧にある野分以上の面白い新篇を出すであらう。文明と云ふも
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