突かんとすなる
その胸に、夜《よる》としなれば、
額《ぬか》よせて、いとうら安《やす》の
夢に入《い》る人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸に我《わ》れかき抱《いだ》き、
眠ること未《いま》だ忘れず。
その胸を今日《けふ》は仮《か》さずと
たはぶれに云《い》ふことあらば、
我《わ》れ如何《いか》に佗《わび》しからまし。
鴨頭草《つきくさ》
鴨頭草《つきくさ》のあはれに哀《かな》しきかな、
わが袖《そで》のごとく濡《ぬ》れがちに、
濃き空色の上目《うはめ》しぬ、
文月《ふづき》の朝の木《こ》のもとの
板井のほとり。
月見草
はかなかる花にはあれど、
月見草《つきみさう》、
ふるさとの野を思ひ出《い》で、
わが母のこと思ひ出《い》で、
初恋の日を思ひ出《い》で、
指にはさみぬ、月見草《つきみさう》。
伴奏
われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。
にしき、こがね、
女御《にようご》、后《きさき》、
すべて得《え》ばや。
ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。
黒きひとみ、
ながき髪、
しじに濡《ぬ》れぬ。
恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。
初春《はつはる》
ひがむ気短《きみじ》かな鵯鳥《ひよどり》は
木末《こずゑ》の雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、甲高《かんだか》に
凍《い》てつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも木蔭《こかげ》の下枝《しづえ》には
あれ、もう、愛らしい鶯《うぐひす》が
雪解《ゆきげ》の水の小《こ》ながれに
軽く反《そり》打つ身を映し、
ちちと啼《な》く、ちちと啼《な》く。
その小啼《ささなき》は低くても、
春ですわね、春ですわね。
仮名文字
わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所《とめど》なく乱れ散る涙のしづく。
誰《たれ》かまた手に結び玉《たま》とは愛《め》でん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我が夫《せ》な読みそ、
君ぬらさじと堰《せ》きとむる
しがらみの句切《くぎり》の淀《よど》に
青き愁《うれひ》の水渋《みしぶ》いざよふ。
子守
みなしごの十二《じふに》のをとめ、
きのふより我家《わがいへ》に来て、
四《よ》つになる子の守《もり》をしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
筋《すぢ》を引き、環《くわん》をゑがきて、
箪笥《たんす》てふ物を教へぬ。
我子《わがこ》らは箪笥《たんす》を知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。
寂しき日
あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、寂《さび》しき、寂《さび》しき此《この》日を。
だまされまし、賺《すか》されまし、
よしや、よしや、
見殺《みごろ》しに人のするとも。
煙草
わかき男は来るたびに
よき金口《きんくち》の煙草《たばこ》のむ。
そのよき香り、新しき
愁《うれへ》のごとくやはらかに、
煙《けぶり》と共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我が怖《おそ》るるも、喜ぶも、
唯《た》だその手なる煙草《たばこ》のみ。
百合の花
素焼の壺《つぼ》にらちもなく
投げては挿せど、百合《ゆり》の花、
ひとり秀《ひい》でて、清らかな
雪のひかりと白さとを
貴《あて》な金紗《きんしや》の匂《にほ》はしい
※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]エルに隠す面《おも》ざしは、
二十歳《はたち》ばかりのつつましい
そして気高《けだか》い、やさがたの
侯爵夫人《マルキイズ》にもたとへよう。
とり合せたる金蓮花《きんれんくわ》、
麝香《じやかう》なでしこ、鈴蘭《すゞらん》は
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函《はうぎよくいれ》の蓋《ふた》をあけ、
黄金《きん》の腕環《うでわ》や紫の
斑入《ふいり》の玉《たま》の耳かざり、
真珠の頸環《くびわ》、どの花も
※[#「執/れっか」、106−上−6]《あつ》い吐息を投げながら、
華奢《くわしや》と匂《にほ》ひを競《きそ》ひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、其等《それら》の楽欲《げうよく》と、
世の常の美を軽《かろ》く見て、
わが侯爵夫人《マルキイズ》、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて微笑《ほゝゑ》むか。
花の秘密は知り難《がた》い、
けれど、百合《ゆり》をば見てゐると、
わたしの心は涯《はて》もなく
拡がつて行《ゆ》く、伸びて行《ゆ》く。
我《わ》れと我身《わがみ》を抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
※[#「執/れっか」、106−下−5]《ねつ》と、涙と、まごころの
中に一所《いつしよ》に融《と》け合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつて行《ゆ》く。
[#ここで段組終わり]
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月を釣る
(小曲卅五章)
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[#ここから2段組]
釣
人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しい夜《よる》に釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの釣鈎《つりばり》に餌《ゑさ》は要《い》らない、
わたしは唯《た》だ月を釣る。
人中
唯《た》だ一人《ひとり》ある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりと細《ほそ》りやつるる。
平生《へいぜい》は湯のやうに沸《わ》く涙も
かう云《い》ふ日には凍るやらん。
立枠《たてわく》模様の水浅葱《みづあさぎ》、はでな単衣《ひとへ》を著《き》たれども、
わが姿、人にまじればうら寂《さび》しや。
炎日
わが家《いへ》の八月の日の午後、
庭の盥《たらひ》に子供らの飼ふ緋目高《ひめだか》は
生湯《なまゆ》の水に浮き上がり、
琺瑯色《はふらういろ》の日光に
焼釘《やけくぎ》の頭《あたま》を並べて呼吸《いき》をする。
その上にモザイク形《がた》の影を落《おと》す
静かに大きな金網。
木《こ》の葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする幅広《はゞびろ》の帯こそ大蛇《だいじや》なれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。
月見草
夜あけ方《がた》に降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た岩代《いはしろ》の
摺上川《すりがみがは》が想《おも》はれる。
砂に埋《うも》れて顔を出す
濡《ぬ》れた黄いろの月見草《つきみさう》、
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさし覗《のぞ》き、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。
明日
過ぎこし方《かた》を思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方《ゆくへ》知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日《あす》も弧《こ》を描《ゑが》かん、
踊りつつ往《ゆ》かん、
曳《ひ》くひかり、水色の長き裳《も》の如《ごと》くならん。
芸術
芸術はわれを此処《ここ》にまで導きぬ、
今《こん》[#ルビの「こん」はママ]こそ云《い》はめ、
われ、芸術を彼処《かしこ》に伴ひ行《ゆ》かん、
より真実に、より光ある処《ところ》へと。
力
われは軛《くびき》となりて挽《ひ》かれ、
駿足《しゆんそく》の馬となりて挽《ひ》き、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。
走馬灯
まはれ、まはれ、走馬灯《そうまとう》。
走馬灯《そうまとう》は幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
猶《なほ》まはれ、まはれ、
まはらぬは寂《さび》しきを。
桂氏《かつらし》の馬は西園寺氏《さいをんじし》の馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。
空しき日
女、三越《みつこし》の売出しに行《ゆ》きて、
寄切《よせぎれ》の前にのみ一日《ひとひ》ありき。
帰りきて、かくと云《い》へば、
男は独り棋盤《ごばん》に向ひて
五目並べの稽古《けいこ》してありしと云《い》ふ。
(零《れい》と零《れい》とを重ねたる今日《けふ》の日の空《むな》しさよ。)
さて男は疲れて黙《もだ》し、また語らず、
女も終《つひ》に買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
纔《わづか》に高浪織《たかなみおり》の帯の片側《かたかは》に過ぎざれど。
麦わら
それは細き麦稈《むぎわら》、
しやぼん玉を吹くによけれど、竿《さを》とはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、麦稈《むぎわら》も束として火を附《つ》くれば
ゆゆしくも家《いへ》を焼く。
わがをさな児《ご》は賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いて行《ゆ》くよ。
恋
一切を要す、
われは憧《あこが》るる霊《たましひ》なり。
物をしみな為《せ》そ、
若《も》し齎《もたら》す物の猶《なほ》ありとならば。――
初めに取れる果実《このみ》は年経《としふ》れど紅《あか》し、
われこそ物を損ぜずして愛《め》づるすべを知るなれ。
対話
「常に杖《つゑ》に倚《よ》りて行《ゆ》く者は
その杖《つゑ》を失ひし時、自《みづか》らをも失はん。
われは我にて行《ゆ》かばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さて云《い》ひぬ、
「な偽《いつは》りそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」
或女
古き物の猶《なほ》権威ある世なりければ
彼《かれ》は日本の女にて東の隅にありき。
また彼《かれ》は精錬せられざりしかば
猶《なほ》鉱《あらがね》のままなりき。
みづからを白金《プラチナ》の質《しつ》と知りながら……
爪
物を書きさし、思ひさし、
広東《カントン》蜜柑《みかん》をむいたれば、
藍《あゐ》と鬱金《うこん》に染まる爪《つめ》。
江戸の昔の廣重《ひろしげ》の
名所づくしの絵を刷つた
版師《はんし》の指は斯《か》うもあらうか。
藍《あゐ》と鬱金《うこん》に染まる爪《つめ》。
或国
堅苦しく、うはべの律義《りちぎ》のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気《ぎ》の国、
支那《しな》人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加《アメリカ》の富なくて、亜米利加《アメリカ》化する国、
疑惑と戦慄《せんりつ》とを感ぜざる国、
男みな背を屈《かゞ》めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安《やす》く、万万歳《ばんばんざい》の国。
朝
髪かき上ぐる手ざはりが
何《なに》やら温泉|場《ば》にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この間《ま》に手紙を書きませう、
朝の書斎は凍《こほ》れども、
「君を思ふ」と巴里《パリイ》宛《あて》に。
或家のサロン
女は在る限り
粗《あら》けづりの明治の女ばかり。
唯《た》だ一人《ひとり》あの若い詩人がゐて
今日《けふ》の会は引き立つ。
永井|荷風《かふう》の書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿《うたまろ》の版画の
「上の息子」の身のこなし。
片時
わが小《ち》さい娘の髪を撫《な》でるとき、
なにか知ら、生れ故郷が懐《おも》はれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、其《そ》れ、とりとめもない事ながら、
片時《かたとき》は黄金《こがね》の雨が降りかかる。
春昼《しゆんちう》
三月《さんぐわつ》の昼のひかり、
わが書斎に匍《は》ふ藤《ふぢ》むらさき。
そのなかに光《ひかる》の顔の白、
七瀬《なゝせ》の帯の赤、
机に掛けた布の脂色《やにいろ》、
みな生生《いきいき》と温かに……
されど唯《た》だ壺《つぼ》の彼岸桜《ひがんさくら》と
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の如《ごと》く我も在るらん。
雪
障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔《すゞはく》よりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし覗《のぞ》く
雪のこころの寂《さび》しさよ。
しづくとなつて融《と》けてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして
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