夫婦がわたしを待つてゐた。


    薄暮《はくぼ》

ルウヴル宮《きゆう》[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]の正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門《がいせんもん》もやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。


    ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルサイユの逍遥

※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルサイユの宮《みや》の
大理石の階《かい》を降《くだ》り、
後庭《こうてい》の六月の
花と、香《か》と、光の間《あひだ》を過ぎて
われ等《ら》三人《みたり》の日本人は
広大なる森の中に入《い》りぬ。

二百《にびやく》年を経たる※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の大樹《だいじゆ》は
明るき緑の天幕《てんと》を空に張り、
その下《もと》に紫の苔《こけ》生《お》ひて、
物古《ものふ》りし石の卓一つ
匐《は》ふ蔦《つた》の黄緑《わうりよく》の若葉と
薄赤き蔓《つる》とに埋《うづ》まれり。

二人《ふたり》の男は石の卓に肘《ひぢ》つきて
苔《こけ》の上に横たはり、
われは上衣《うはぎ》を脱ぎて
※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の根がたに蹲踞《うづくま》りぬ。
快き静けさよ、かなたの梢《こずゑ》に小鳥の高音《たかね》……
近き涼風《すゞかぜ》の中に立麝香草《たちじやかうさう》の香り……

わが心は宮《みや》の中《うち》に見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と豪奢《がうしや》とに酔《ゑ》ひつつあり。
后《きさき》達の寝室の清清《すがすが》しき白と金色《こんじき》……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな猩猩緋《しやう/″\ひ》……

されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの王后《わうこう》の栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
脆《もろ》き人間の外《ほか》に立てる
※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の大樹と石の卓とばかり。

ああ、われは寂《さび》し、
わが追ひつつありしは
人間の短命の生《せい》なりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠《いう/\》と人間の街に帰るよしもがな。


    仏蘭西の海岸にて

さあ、あなた、磯《いそ》へ出ませう、
夜通《やどほ》[#ルビの「やどほ」はママ]し涙に濡《ぬ》れた
気高《けだか》い、清い目を
世界が今|開《あ》けました。
おお、夏の暁《あかつき》、
この暁《あかつき》の大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。

海峡には、ほのぼのと
白い透綾《すきや》の霧が降つて居ます。
そして其処《そこ》の、近い、
黒い暗礁の
疎《まば》らに出た岩の上に
鷺《さぎ》が五六|羽《は》、
首を羽《はね》の下に入《い》れて、
脚《あし》を浅い水に浸《つ》けて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際《みづぎは》の砂の上を、そつと、
素足で歩《あ》るいて行《ゆ》きませう。

まあ、神神《かう/″\》しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園で
若いイヴの髪を吹いたのも此《この》風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれて行《ゆ》かないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうに袂《たもと》の揚がる快さには
日本の著物《きもの》の幸福《しあはせ》が思はれます。

御覧《ごらん》なさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉《エメラルド》の女衣《ロオブ》に
水晶と黄金《きん》の笹縁《さゝべり》……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長い裾《すそ》が
わたし達の素足と縺《もつ》れ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
間《ま》を置いて海の鐃※[#「金+祓のつくり」、第3水準1−93−6]《ねうばち》が鳴らされます。

あら、鷺《さぎ》が皆立つて行《ゆ》きます、
俄《には》かに紅鷺《べにさぎ》のやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。


    フオンテンブロウの森

秋の歌はそよろと響く
白楊《はくやう》と毛欅《ぶな》の森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。

褪《さ》めたる朱《しゆ》か、
剥《は》がれたる黄金《きん》か、
風無くて木《こ》の葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、衣《きぬ》にとまるとも。

それもまた木《こ》の葉の如《ごと》く、
かろやかに一つ白き蝶《てふ》
舞ひて降《くだ》れば、尖《とが》りたる
赤むらさきの草ぞゆするる。

眠れ、眠れ、疲れたる
春夏《はるなつ》の踊子《をどりこ》よ、蝶《てふ》よ。
かぼそき路《みち》を行《ゆ》きつつ、猶《なほ》我等は
しづかに語らめ、しづかに。

おお、此処《ここ》に、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等が為《た》めならん、
君よ、今は語りたまふな。


    巴里郊外

たそがれの路《みち》、
森の中に一《ひと》すぢ、
呪《のろ》はれた路《みち》、薄白《うすじろ》き路《みち》、
靄《もや》の奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく路《みち》。

うち沈みて静かな路《みち》。
ひともと[#「ひともと」は底本では「もともと」]何《な》んの木であらう、
その枯れた裸の腕《かひな》を挙げ、
小暗《をぐら》きかなしみの中に、
心疲れた路《みち》を見送る。

たそがれの路《みち》の別れに、樺《かば》の木と
榛《はん》の森は気が狂《ふ》れたらし、
あれ、谺響《こだま》が返す幽《かす》かな吐息……
幽《かす》かな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
また幽《かす》かな啜《すゝ》り泣き……

蛋白石色《オパアルいろ》の珠数珠《じゆずだま》の実の
頸飾《くびかざり》を草の上に留《とゞ》め、
薄墨色の音せぬ古池を繞《めぐ》りて、
靄《もや》の奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森の路《みち》……
[#地から4字上げ](一九一二年巴里にて)


    ツウル市にて

水に渇《かつ》えた白緑《はくろく》の
ひろい麦生《むぎふ》を、すと斜《はす》に
翔《かけ》る燕《つばめ》のあわてもの、
何《なに》の使《つかひ》に急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。

続いて、さつと、またさつと、
生《なま》あたたかい南風《みなみかぜ》
ロアルを越して吹く度《たび》に、
白楊《はくやう》の樹《き》がさわさわと
待つてゐたよに身を揺《ゆす》る。

河底《かはぞこ》にゐた家鴨《あひる》らは
岸へ上《のぼ》つて、アカシヤの
蔭《かげ》にがやがや啼《な》きわめき、
燕《つばめ》は遠く去つたのか、
もう麦畑《むぎばた》に影も無い。

それは皆皆よい知らせ、
暫《しばら》くの間《ま》に風は止《や》み、
雨が降る、降る、ほそぼそと
金《きん》の糸やら絹の糸[#「絹の糸」は底本では「絹糸の」]、
真珠の糸の雨が降る。

嬉《うれ》しや、これが仏蘭西《フランス》の
雨にわたしの濡《ぬ》れ初《はじ》め。
軽い婦人服《ロオブ》に、きやしやな靴、
ツウルの野辺《のべ》の雛罌粟《コクリコ》の
赤い小路《こみち》を君と行《ゆ》き。

濡《ぬ》れよとままよ、濡《ぬ》れたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。

そして昔のカテドラル
あの下蔭《したかげ》で休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
金《きん》の糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
[#地から3字上げ](ロアルは仏蘭西南部[#「南部」は底本では「南都」]の河なり)


    セエヌ川

ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影《かげ》に隠れたうすものか、
泣いた夜明《よあけ》の黒髪か。

いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋から覗《のぞ》くわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……

あれ、じつと、紅玉《リユビイ》の涙のにじむこと……
船にも岸にも灯《ひ》がともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……


    芍薬

大輪《たいりん》に咲く仏蘭西《フランス》の
芍薬《しやくやく》こそは真赤《まつか》なれ。
枕《まくら》にひと夜《よ》置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。


    ロダンの家の路

真赤《まつか》な土が照り返す
だらだら坂《ざか》の二側《ふたかは》に、
アカシヤの樹《き》のつづく路《みち》。

あれ、あの森の右の方《かた》、
飴色《あめいろ》をした屋根と屋根、
あの間《あひだ》から群青《ぐんじやう》を
ちらと抹《なす》つたセエヌ川……

[#1行アキは底本ではなし]涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香《か》と水の香《か》と。

これが日本の畑《はたけ》なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟《ひなげし》と、
黄金《きん》に交ぜたる朱《しゆ》の赤さ。

誰《た》が挽《ひ》き捨てた荷車か、
眠い目をして、路《みち》ばたに
じつと立ちたる馬の影。

「 MAITRE《メエトル》 RODIN《ロダン》 の別荘は。」
問ふ二人《ふたり》より、側《そば》に立つ
KIMONO《キモノ》 姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人《ゐなかびと》。

「メエトル・ロダンの別荘は
ただ真直《まつすぐ》に行《ゆ》きなさい、
木の間《あひだ》から、その庭の
風見車《かざみぐるま》が見えませう。」

巴里《パリイ》から来た三人《さんにん》の
胸は俄《には》かにときめいた。
アカシヤの樹《き》のつづく路《みち》。


    飛行機

空をかき裂《さ》く羽《はね》の音……
今日《けふ》も飛行機が漕《こ》いで来る。
巴里《パリイ》の上を一《ひと》すぢに、
モンマルトルへ漕《こ》いで来る。

ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人《ひとり》は女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……

[#1行アキは底本ではなし]何処《どこ》へ行《ゆ》くのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めも寂《さび》しかろ。

かき消えて行《ゆ》く飛行機の
夏の日中《ひなか》の羽《はね》の音……


    モンマルトルの宿にて

あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日《けふ》も巴里《パリイ》をすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、高高《たかだか》と
羽《はね》をひろげたよい形《かたち》。

オペラ眼鏡《グラス》を目にあてて、
空を踏まへた胆太《きもぶと》の
若い乗手《のりて》を見上ぐれば、
少し捻《ひね》つた機体から
きらと反射の金《きん》が散る。

若い乗手《のりて》のいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時《かたどき》やまぬ新らしい
力となつて飛んで行《ゆ》く、
前へ、未来へ、ましぐらに。


    暗殺酒鋪《キヤバレエ・ダツサツサン》
[#地から3字上げ](巴里モンマルトルにて)

閾《しきゐ》を内へ跨《また》ぐとき、
墓窟《カバウ》の口を踏むやうな
暗い怖《おび》えが身に迫る。

煙草《たばこ》のけぶり、人いきれ、
酒類《しゆるゐ》の匂《にほ》ひ、灯《ひ》の明《あか》り、
黒と桃色、黄と青と……

あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を著《き》た
わたしを迎へて爆《は》ぜ裂ける。

鬼のむれかと想《おも》はれる
人の塊《かたまり》、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭い室《しつ》。
    ×
淡い眩暈《めまひ》のするままに
君が腕《かひな》を軽く取り、
物|珍《めづ》らしくさし覗《のぞ》く
知らぬ人等《ひとら》に会釈して、
扇で半《なか》ば頬《ほ》を隠し、
わたしは其処《そこ》に掛けてゐた。

ボウドレエルに似た像が
荒い苦悶《くもん》を食ひしばり、
手を後ろ手《で》に縛られて
煤《すゝ》びた壁に吊《つる》された、
その足もとの横長い
粗木《あら
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