タンの屋根に濡《ぬ》れかかり、
煤《すゝ》と煙を溶《と》きながら、
石炭|殻《がら》に沁《し》んでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして門田《かどた》のれんげ草。
薔薇の歌(八章)
賓客《まらうど》[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、
いざ入《い》りたまへ、
否《いな》、しばし待ちたまへ、
その入口《いりくち》の閾《しきゐ》に。
知りたまふや、賓客《まらうど》よ、
ここに我心《わがこゝろ》は
幸運の俄《には》かに来《きた》れる如《ごと》く、
いみじくも惑へるなり。
なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱《ひとかゝ》へのかずかずの薔薇《ばら》。
如何《いか》にすべきぞ、
この堆《うづたか》き
めでたき薔薇《ばら》を、
両手《もろで》に余る薔薇《ばら》を。
この花束のままに[#「花束のままに」は底本では「花束のまにまに」]
太き壺《つぼ》にや活《い》けん、
とりどりに
小《ち》さき瓶《かめ》にや分《わか》たん。
先《ま》づ、何《なに》はあれ、
この薄黄《うすき》なる大輪《たいりん》を
賓客《まらうど》よ、
君が掌《てのひら》に置かん。
花に足る喜びは、
美《うつ》くしきアントニオを載せて
羅馬《ロオマ》を船出《ふなで》せし
クレオパトラも知らじ。
まして、風流《ふうりう》の大守《たいしゆ》、
十二の金印《きんいん》を佩《お》びて、
楊州《やうしう》に下《くだ》る楽《たのし》みは
言ふべくも無し。
いざ入《い》りたまへ、
今日《けふ》こそ我が仮の家《いへ》も、
賓客《まらうど》よ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
×
一つの薔薇《ばら》の瓶《かめ》は
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの薔薇《ばら》の瓶《かめ》は
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの薔薇《ばら》の瓶《かめ》は
君と我との
間《あひだ》の卓に置かん。
さてまた二つの薔薇《ばら》の瓶《かめ》は
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの瓶《かめ》は
何処《いづこ》にか置くべき。
化粧《けはひ》の間《ま》にか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き藻風《さうふう》の君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
×
今日《けふ》、わが家《いへ》には
どの室《しつ》にも薔薇《ばら》あり。
我等は生きぬ、
香味《かうみ》と、色と、
春と、愛と、
光との中に。
なつかしき博士《はかせ》夫人、
その花園《はなぞの》の薔薇《ばら》を、
朝露《あさつゆ》の中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どの室《しつ》にも薔薇《ばら》あり。
同じ都に住みつつ、
我は未《いま》だその君を
まのあたり見ざれど、
匂《にほ》はしき御心《みこころ》の程は知りぬ、
何時《いつ》も、何時《いつ》も、
花を摘みて賜《たま》へば。
×
われは宵より
暁《あかつき》がたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
※[#「執/れっか」、172−下−7]病《ねつびやう》の人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士《はかせ》夫人の賜《たま》へる
焔《ほのほ》の色の薔薇《ばら》ありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は其処《そこ》に」と。
×
今朝《けさ》、わが家《いへ》の
どの室《しつ》の薔薇《ばら》も、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑《ほゝゑ》める唇なり、
皆、歌へる唇なり。
×
あはれ、何《なん》たる、
若やかに、
好色好色《すきずき》しき
微風《そよかぜ》ならん。
青磁の瓶《かめ》の蔭《かげ》に
宵より忍び居て、
この暁《あかつき》、
大輪《たいりん》の薔薇《ばら》の
仄《ほの》かに落ちし
真赤《まつか》なる
一片《ひとひら》の下《もと》に、
あへなくも圧《お》されて、
息を香《か》に代へぬ。
×
瓶毎《かめごと》に
わが侍《かしづ》き護《まも》る
宝玉《はうぎよく》の如《ごと》き
めでたき薔薇《ばら》、
天《あま》つ日の如《ごと》き
盛りの薔薇《ばら》、
恋知らぬ天童《てんどう》の如《ごと》き
清らなる薔薇《ばら》、
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及び難《がた》しと。
此処《ここ》に
われに親しきは、
肉身の深き底より
已《や》むに已《や》まれず
燃えあがる※[#「執/れっか」、174−上−12]情《ねつじやう》の
其《そ》れにひとしき紅《あか》き薔薇《ばら》、
はた、逸早《いちはや》く
愁《うれひ》を知るや、
青ざめて、
月の光に似たる薔薇《ばら》、
深き疑惑に沈み入《い》る
烏羽玉《うはたま》の黒き薔薇《ばら》。
×
薔薇《ばら》がこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角な瓶《かめ》から
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうな塊《かたまり》、
月の光のやうな線、
ラフワエルの花神《フロラ》の絵の肉色《にくいろ》。
つつましやかな薔薇《ばら》は
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に凭《よ》る
尼達のやうには青ざめず、
清く貴《あて》やかな処女の
高い、温かい寂《さび》しさと、
みづから抑《おさ》へかねた妙香《めうかう》の
金色《こんじき》をした雰囲気《アトモスフエエル》との中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの五月《ごぐわつ》の薔薇《ばら》。
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この疵《きず》だらけの卓《テエブル》の上へ、
薔薇《ばら》よ、そなたは
どんな貴女《きぢよ》の飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れな忙《せは》しい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季《はなどき》は短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしと是《こ》れを感じる。
でも、薔薇《ばら》よ、
私は窓掛を引いて、
そなたを陰影《かげ》の中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
猶《なほ》、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。
牡丹の歌
おお、真赤《まつか》なる神秘の花、
天啓の花、牡丹《ぼたん》。
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、牡丹《ぼたん》。
愛の花、※[#「執/れっか」、176−上−8]《ねつ》の花、
幻想の花、焔《ほのほ》の花、牡丹《ぼたん》。
コンテツス・ド・ノワイユを、
ルノワアルを、梅蘭芳《メイランフワン》を、
梅原|龍三郎《りようざぶらう》を連想する花、牡丹《ぼたん》。
おお、そなたは、また、
宇宙の不思議に酔《ゑ》へる哲人の
大歓喜《だいくわんぎ》を示す記号《アンブレエム》、牡丹《ぼたん》。
また詩人が常に建つる
※[#「執/れっか」、176−下−5]情《ねつじやう》の宝楼《はうろう》の
柱頭《ちゆうとう》[#ルビの「ちゆうとう」は底本では「ちうとう」]を飾る火焔模様、牡丹《ぼたん》。
また、青春の秘経《ひきやう》の奥に
愛と栄華を保証する
運命の黄金《きん》の大印《たいいん》、牡丹《ぼたん》。
おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き接吻《ベエゼ》の唇、牡丹《ぼたん》。
我は狂ほしき眩暈《めまひ》の中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
※[#「執/れっか」、177−上−1]《あつ》き、※[#「執/れっか」、177−上−1]《あつ》きヒユウマニズムの唇、牡丹《ぼたん》。
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が真赤《まつか》なる心の花、牡丹《ぼたん》。
初夏《はつなつ》
初夏《はつなつ》が来た、初夏《はつなつ》は
髪をきれいに梳《す》き分けた
十六七の美少年。
さくら色した肉附《にくづき》に、
ようも似合うた詰襟《つめえり》の
みどりの上衣《うはぎ》、しろづぼん。
初夏《はつなつ》が来た、初夏《はつなつ》は
青い焔《ほのほ》を沸《わ》き立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいと噛《か》み切り吹く笛も
つつみ難《がた》ない火の調子。
初夏《はつなつ》が来た、初夏《はつなつ》は
ほそいづぼんに、赤い靴、
杖《つゑ》を振り振り駆けて来た。
そよろと匂《にほ》ふ追風《おひかぜ》に、
枳殻《きこく》の若芽、けしの花、
青梅《あをうめ》の実も身をゆする。
初夏《はつなつ》が来た、初夏《はつなつ》は
五行ばかりの新しい
恋の小唄《こうた》をくちずさみ、
女の呼吸《いき》のする窓へ、
物を思へど、蒼白《あをじろ》い
百合《ゆり》の陰翳《かげ》をば投げに来た。
夏の女王
おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の皷動《こどう》に調子を合せて、
万物が一斉に
うんと力《りき》み返り、
肺|一《いつ》ぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色《こんじき》に光る夏、
真紅《しんく》に炎上する夏、
火の粉《こ》を振撒《ふりま》く夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する焼酎《せうちう》の夏、
乱舞する獅子頭《ししかしら》の夏、
かう云《い》ふ夏のあるために
万物は目を覚《さま》し、
天地《てんち》初生《しよせい》の元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と姑息《こそく》とから、
小さな怨嗟《ゑんさ》から、
見苦《みぐるし》い自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂《へきれき》の一音《いちおん》、
それが振鈴《しんれい》だ、
見よ、今、
赫灼《かくしやく》たる夏の女王《ぢよわう》の登場。
五月の歌
ああ、五月《ごぐわつ》、
そなたは、美《うつ》くしい
季節の処女《をとめ》
太陽の花嫁。
そなたの為《た》めに、
野は躑躅《つゝじ》を、
水は杜若《かきつばた》を、
森は藤《ふぢ》を捧《さゝ》げる。
微風《そよかぜ》も、蜜蜂《みつばち》も、
はた杜鵑《ほとゝぎす》も、
唯《た》だそなたを
讃《ほ》めて歌ふ。
五月《ごぐわつ》よ、そなたの
桃色の微笑《ほゝゑみ》は
木蔭《こかげ》の薔薇《ばら》の
花の上にもある。
五月|礼讃《らいさん》
五月《ごぐわつ》は好《よ》い月、花の月、
芽の月、香《か》の月、色《いろ》の月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬《しやくやく》、藤《ふぢ》、蘇枋《すはう》、
リラ、チユウリツプ、罌粟《けし》の月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠《まきかんむり》に矢を背負ひ、
葵《あふひ》をかざす京人《きやうびと》が
馬競《うまくら》べする祭月《まつりづき》、
巴里《パリイ》の街の少女等《をとめら》が
花の祭に美《うつ》くしい
貴《あて》な女王《ぢよわう》を選ぶ月、
わたしのことを云《い》ふならば
シベリアを行《ゆ》き、独逸《ドイツ》行《ゆ》き、
君を慕うてはるばると
その巴里《パリイ》まで著《つ》いた月、
菖蒲《あやめ》の太刀《たち》と幟《のぼり》とで
去年うまれた四男《よなん》目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚《しゆろ》の木が
馬来《マレエ》の島を想《おも》はせる
微風《そよかぜ》の月、青い月、
プラチナ色《いろ》の雲の月、
蜜蜂《みつばち》の月、蝶《てふ》の月、
蟻《あり》も蛾《が》となり、金糸雀《かなりや》も
卵を抱《いだ》く生《うみ》の月、
何《なに》やら物に誘《そゝ》られる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊《をどり》の、楽《がく》の、歌の月、
わたしを中に万物《ばんぶつ》が
堅く抱きしめ、縺《もつ》れ合ひ、
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