の切崖《きりぎし》が
煉瓦色《れんがいろ》の肌を出し、
下には海に沈んだ円石《まろいし》が
浅瀬の水を透《とほ》して
亀《かめ》の甲のやうに並んでゐる。
沖の初島《はつしま》の方から
折折《をりをり》に風が吹く。
その度に、近い所で
小《ち》さい浪頭《なみがしら》がさつと立ち、
石垣の椿《つばき》が身を揺《ゆす》つて
落ちた花がぼたりと水に浮く。
田舎の春
正月|元日《ぐわんじつ》、里《さと》ずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ木枯《こがらし》はをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い鼓弓《こきふ》を鳴らせども、
軒端《のきは》の日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
上には晴れた空の色、
濃いお納戸《なんど》の支那繻子《しなじゆす》に、
光、光と云《い》ふ文字を
銀糸《ぎんし》で置いた繍《ぬひ》の袖《そで》、
春が著《き》て来た上衣《うはぎ》をば
枝に掛けたか、打香《うちかを》り、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
太陽出現
薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。
珊瑚紅《さんごこう》から
黄金《わうごん》の光へ、
眩《まば》ゆくも変りゆく
焔《ほのほ》の舞。
曙《あけぼの》の雲間《くもま》から
子供らしい円《まろ》い頬《ほ》を
真赤《まつか》に染めて笑ふ
地上の山山。
今、焔《ほのほ》は一《ひと》揺れし、
世界に降らす金粉《きんぷん》。
不死鳥《フエニクス》の羽羽《はば》たきだ。
太陽が現れる。
春が来た
春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板《はりものいた》の紅絹《もみ》のきれ、
立つ陽炎《かげろふ》も身をそそる。
春が来た。
亜鉛《とたん》の屋根に、ちよちよと、
妻に焦《こが》れてまんまろな
ふくら雀《すゞめ》もよい形《かたち》。
春が来た。
遠い旅路の良人《をつと》から
使《つかひ》に来たか、見に来たか、
わたしを泣かせに唯《た》だ来たか。
春が来た。
朝の汁《スウプ》にきりきざむ
蕗《ふき》の薹《たう》にも春が来た、
青いうれしい春が来た。
二月の街
春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。
春よ春、
うす衣《ぎぬ》すらもはおらずに
二月の肌を惜《をし》むのか。
早く注《さ》せ、
あの大川《おほかは》に紫を、
其処《そこ》の並木にうすべにを。
春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風《そよかぜ》として軒《のき》に置け。
その手には
屹度《きつと》、蜜《みつ》の香《か》、薔薇《ばら》の夢、
乳《ちゝ》のやうなる雨の糸。
想《おも》ふさへ
好《よ》しや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。
春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。
我前に梅の花
わが前に梅の花、
淡《うす》き緑を注《さ》したる白、
ルイ十四世《じふしせ》の白、
上には瑠璃《るり》色の
支那絹《しなぎぬ》の空、
目も遥《はる》に。
わが前に梅の花、
心は今、
白金《はくきん》の巣に
香《か》に酔《ゑ》ふ小鳥、
ほれぼれと、一節《ひとふし》、
高音《たかね》に歌はまほし。
わが前に梅の花、
心は更に、
空想の中なる、
羅馬《ロオマ》を見下《みおろ》す丘の上の、
大理石の柱廊《ちゆうらう》[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]に
片手を掛けたり。
紅梅
おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
紅梅の花、
薄暗《うすくら》い長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎ貼《は》りした障子の中の
冬の明《あか》りに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな帛片《きれ》と
糊《のり》と、鋏《はさみ》と、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工《てざいく》に造つた花と云《い》はうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の赤玉《あかだま》を綴《つゞ》つた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜと云《い》ふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒《げんかん》と北風《きたかぜ》とに曝《さら》されて、
あの三月《さんぐわつ》に先だち、
怖《おそ》る怖《おそ》る笑つてゐる。
新柳
空は瑠璃《るり》いろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。
すこし離れて見るときは、
散歩の路《みち》の少女《をとめ》らが
深深《ふかぶか》とさす日傘《パラソル》か。
蔭《かげ》に立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ鳳凰《ほうわう》の
雲より垂れた錦尾《にしきを》か。
空は瑠璃《るり》いろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば翡翠《ひすゐ》の露が散る。
牛込見附外
牛込見附《うしごめみつけ》の青い色、
わけて柳のさばき髪《がみ》、
それが映つた濠《ほり》の水。
柳の蔭《かげ》のしつとりと
黒く濡《ぬ》れたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い護謨輪《ごむわ》の馳《は》せ去れば、
あとに我児《わがこ》の靴のおと。
黄いろな電車を遣《や》りすごし、
見上げた高い神楽坂《かぐらざか》、
何《なに》やら軽《かろ》く、人ごみに
気おくれのする快さ。
我児《わがこ》の手からすと離れ、
風船|玉《だま》が飛んでゆく、
軒《のき》から軒《のき》へ揚《あが》りゆく。
市中沙塵
柳の青む頃《ころ》ながら、
二月の風は殺気《さつき》だち、
都の街の其処《そこ》ここに
砂の毒瓦斯《どくがす》、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。
よろよろとして、濠端《ほりばた》に
山高帽を抑《おさ》へたる
洋服づれの逃げ足の
操人形《あやつり》に似る可笑《をか》しさを、
外目《よそめ》に笑ふひまも無く、
さと我顔《わがかほ》に吹きつくる
痛き飛礫《つぶて》に目ふさげば、
軽《かろ》き眩暈《めまひ》に身は傾《かし》ぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。
二月の風の憎きかな、
乱るる裾《すそ》は手に取れど、
髪も袂《たもと》も鍋鶴《なべづる》の
灰色したる心地して、
砂の煙《けぶり》に羽羽《はば》たきぬ。
弥生の歌
にはかに人の胸を打つ
高い音《ね》じめの弥生《やよひ》かな、
支那《しな》の鼓弓《こきう》の弥生《やよひ》かな。
かぼそい靴を爪立《つまだ》てて
くるりと旋《めぐ》る弥生《やよひ》かな、
露西亜《ロシア》バレエの弥生《やよひ》かな。
薔薇《ばら》に並んだチユウリツプ、
黄金《きん》[#ルビの「きん」は底本では「ん」]」と白との弥生《やよひ》かな、
ルイ十四世《じふしせい》の弥生《やよひ》かな。
四月の太陽
ああ、今やつと目の醒《さ》めた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇《りやうあん》の日は過ぎたのに、
永く見詰めて寝通《ねとほ》した
暗い一間《ひとま》を脱け出して、
柳並木の河岸《かし》通《どほ》り
塗り替へられた水色の
きやしやな露椅子《バンク》に腰を掛け、
白い諸手《もろて》を細杖《ほそづゑ》の
銀の把手《とつて》に置きながら、
風を怖《おそ》れて外套《ぐわいたう》の
淡《うす》い焦茶の襟を立て、
病《やまひ》あがりの青ざめた
顔を埋《うづ》めて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、美《うつ》くしい
うすくれなゐの微笑《ほゝゑみ》は
太陽の頬《ほ》にさつと照り、
掩《おほ》ひ切れざる喜びの
底ぢからある目差《まなざし》は
金《きん》の光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町《こまち》娘を選《よ》りぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば口口《くちぐち》に
細い腕《かひな》をさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中の駅《しく》なれば、
いざ此処《ここ》にして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざ魂《たましひ》をすこやかに
はた清くして、晶液《しやうえき》の
滴《したゝ》る水に身を洗へ。
やがて、そなたの行先《ゆくさき》は
すべての溝が毒に沸《わ》き、
すべての街が悪に燃え、
腐れた匂《にほ》ひ、※[#「執/れっか」、165−上−4]《あつ》い気息《いき》、
雨と洪水、黴《かび》と汗、
蠕虫《うじ》[#ルビの「うじ」は底本では「うぢ」]、バクテリヤ、泥と人、
其等《それら》の物の入《い》りまじり、
濁り、泡立ち、咽《む》せ返る
夏の都を越えながら、
汚《けが》れず、病まず、悲《かなし》まず、
信と勇気の象形《うらかた》に
細身の剣と百合《ゆり》を取り、
ああ太陽よ、悠揚《いうやう》と
秋の野山に分け入《い》れよ、
其処《そこ》にそなたの唇は
黄金《きん》の果実《このみ》に飽くであろ。
雑草
雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
路《みち》を残して青むなり。
雑草こそは正しけれ、
如何《いか》なる窪《くぼ》も平《たひら》かに
円《まろ》く埋《うづ》めて青むなり。
雑草こそは情《なさけ》あれ、
獣《けもの》のひづめ、鳥の脚《あし》、
すべてを載せて青むなり。
雑草こそは尊《たふと》けれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑《ほゝゑ》みながら青むなり。
桃の花
すくすく伸びた枝毎《えだごと》に
円《まろ》くふくらむ好《よ》い蕾《つぼみ》。
若い健気《けなげ》な創造の
力に満ちた桃の花。
この世紀から改まる
女ごころの譬《たとへ》にも
私は引かう、華やかに
この美《うつ》くしい桃の花。
ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人の頬《ほ》も、
さつと真赤《まつか》に酔《ゑ》はされる
愛と匂《にほ》ひの桃の花。
女の明日《あす》の※[#「執/れっか」、166−下−6]情《ねつじやう》が
世をば平和にする如《ごと》く、
今日《けふ》の世界を三月《さんぐわつ》の
絶頂に置く桃の花。
春の微風
ああ三月《さんぐわつ》のそよかぜ、
蜜《みつ》と、香《か》と、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ。
そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして微触《ほの》かなれども、
いと長きその喜びは既に溢《あふ》る。
また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロ[#「パウロ」は底本では「バウロ」]との
額《ぬか》寄せて心|酔《ゑ》ひつつ読みし書《ふみ》なれ。
ああ三月《さんぐわつ》のそよかぜ、
今、そなたの第一の微笑《ほゝゑ》みに、
人も、花も、胡蝶《こてふ》も、
わなわなと胸踊る、胸踊る。
桜の歌
花の中なる京をんな、
薄花《うすはな》ざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。
女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中に何《なに》やら晴れがまし。
春の遊びを愛《め》づる君、
知り給《たま》へるや、この花の
分けていみじき一時《ひととき》を。
日は今西に移り行《ゆ》き、
知り給《たま》へるや、木《こ》がくれて、
青味を帯びしひと時を。
日は今西に移り行《ゆ》き、
静かに霞《かす》む春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。
緋桜《ひざくら》
赤くぼかした八重ざくら、
その蔭《かげ》ゆけば、ほんのりと、
歌舞伎《かぶき》芝居に見るやうな
江戸の明《あか》りが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめ気《ぎ》の、
おもはゆながら、絃《いと》につれ、
何《なに》か一《ひと》さし舞ひたけれ。
さてまた小雨《こさめ》ふりつづき、
目を泣き脹《は》らす八重ざくら、
その散りがたの艶《いろ》めけば、
豊國《とよくに》の絵にあるやうな、
繻子《じゆす》の黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。
春雨
工場《こうば》の窓で今日《けふ》聞くは
慣れぬ稼《かせ》ぎの涙雨《なみだあめ》、
弥生《やよひ》と云《い》へど、美《うつ》くしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦《れんが》の塀や、煙突や、
ト
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