古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日《きのふ》の声がまじつてる。
真実心《しんじつしん》を見せたまへ。


    寂寥

ほんに寂《さび》しい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身が入《い》らぬ。


    自省

あはれ、やうやく我心《わがこゝろ》、
怖《おそ》るることを知り初《そ》めぬ、
たそがれ時の近づくに。
否《いな》とは云《い》へど、我心《わがこゝろ》、
あはれ、やうやくうら寒し。


    山の動く日

山の動く日きたる、
かく云《い》へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯《た》だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚《めざ》めて動くなる。


    一人称

一人称にてのみ物書かばや、
我は寂《さび》しき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。


    乱れ髪

額《ひたひ》にも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて湯滝《ゆだき》に打たるる心もち……
ほつとつく溜息《ためいき》は火の如《ごと》く且《か》つ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我を褒《ほ》め、やがてまた譏《そし》るらん。


    薄手の鉢

われは愛《め》づ、新しき薄手《うすで》の白磁の鉢を。
水もこれに湛《たた》ふれば涙と流れ、
花もこれに投げ入《い》るれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは粗忽《そこつ》なる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更に脆《もろ》く、かよわく……


    剃刀

青く、且《か》つ白く、
剃刀《かみそり》の刄《は》のこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす啼《な》き、
ハモニカを近所の下宿にて吹くは憂《う》たて[#「たて」は底本では「れた」]けれども、
我が油じみし櫛笥《くしげ》の底をかき探れば、
陸奥紙《みちのくがみ》に包みし細身の剃刀《かみそり》こそ出《い》づるなれ。


    煙草

にがきか、からきか、煙草《たばこ》の味。
煙草の味は云《い》ひがたし。
甘《うま》きぞと云《い》はば、粗忽《そこつ》者、
蜜《みつ》、砂糖の類《たぐひ》と思はん。
我は近頃《ちかごろ》煙草《たばこ》を喫《の》み習へど、
喫《の》むことを人に秘めぬ。
蔭口《かげぐち》に、男に似ると云《い》はるるはよし、
唯《た》だ恐る、かの粗忽《そこつ》者こそ世に多けれ。


    女

「鞭《むち》を忘るな」と
ヅアラツストラは云《い》ひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
附《つ》け足して我ぞ云《い》はまし、
「野に放《はな》てよ」


    大祖母の珠数

わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに華奢《きやしや》を好みしとよ。
水晶の珠数《じゆず》にも倦《あ》き、珊瑚《さんご》の珠数《じゆず》にも倦《あ》き、
この青玉《せいぎよく》の珠数《じゆず》を爪繰《つまぐ》りしとよ。
我はこの青玉《せいぎよく》の珠数《じゆず》を解きほぐして、
貧しさに与ふべき玩具《おもちや》なきまま、
一つ一つ我が子等《こら》の手にぞ置くなる。


    我歌

わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
また何《なに》を附《つ》け足さん。
わが心は魚《うを》ならねば鰓《えら》を持たず、
唯《た》だ一息にこそ歌ふなれ。


    すいつちよ

すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋《はつあき》の小《ち》さき篳篥《ひちりき》を吹くすいつちよよ、
その声に青き蚊帳《かや》は更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋《はつあき》の夜《よ》の蚊帳《かや》は錫箔《すゞはく》の如《ごと》く冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。


    油蝉

あぶら蝉《ぜみ》の、じじ、じじと啼《な》くは
アルボオス石鹸《しやぼん》の泡なり、
慳貪《けんどん》なる商人《あきびと》の方形《はうけい》に開《ひら》く大口《おほぐち》なり、
手掴《てづか》みの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。


    雨の夜

夏の夜《よ》のどしやぶりの雨……
わが家《いへ》は泥田《どろた》の底となるらん。
柱みな草の如《ごと》くに撓《たわ》み、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇の如《ごと》し。
寝汗の香《か》……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き蚊帳《かや》は蛙《かへる》の喉《のど》の如《ごと》くに膨《ふく》れ、
肩なる髪は眼子菜《ひるむしろ》のやうに戦《そよ》ぐ。
このなかに青白き我顔《わがかほ》こそ
芥《あくた》に流れて寄れる月見草《つきみさう》の蕊《しべ》なれ。


    間問題

相共《あひとも》にその自《みづか》らの力を試さぬ人と行《ゆ》かじ、
彼等の心には隙《すき》あり、油断あり。
よしもなき事ども――
善悪と云《い》ふ事どもを思へるよ。


    現実

過去はたとひ青き、酸《す》き、充《み》たざる、
如何《いか》にありしとも、
今は甘きか、匂《にほ》はしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ果実《このみ》を摘むなかれ。


    饗宴

商人《あきびと》らの催せる饗宴《きやうえん》に、
我の一人《ひとり》まじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人《あきびと》らよ、晩餐《ばんさん》を振舞へるは君達なれど、
我の食らふは猶《なほ》我の舌の味《あぢは》ふなり。
さて、商人《あきびと》らよ、
おのおの、その最近の仕事に就《つ》いて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。


    歯車

かの歯車は断間《たえま》なく動けり、
静かなるまでいと忙《せは》しく動けり、
彼《か》れに空《むな》しき言葉無し、
彼《か》れのなかに一切を刻むやらん。


    異性

すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、匂《にほ》はしく、派手に、
胸の血の奇《あや》しくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうら寂《さび》しく、
冷たく、力なく、
かの茶人《ちやじん》の間《あひだ》に受渡す言葉の如《ごと》く
寒くいぢけて、質素《ぢみ》[#ルビの「ぢみ」は底本では「じみ」]なるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かの袴《はかま》のみけばけばしくて
寂《さび》しげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。


    わが心

わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水に附《つ》き流るるも是非なや。


    儀表《ぎへう》

鞣《なめ》さざる象皮《ざうひ》の如《ごと》く、
受精せざる蛋《たまご》の如《ごと》く、
胎《たい》を出《い》でて早くも老《お》いし顔する駱駝《らくだ》の子の如《ごと》く、
目を過ぐるもの、凡《およ》そこの三種《みくさ》を出《い》でず。
彼等は此《この》国の一流の人人《ひとびと》なり。


    白蟻

白蟻《しろあり》の仔虫《しちう》こそいたましけれ、
職虫《しよくちう》の勝手なる刺激に由《よ》り、
兵虫《へいちう》とも、生殖虫とも、職虫《しよくちう》とも、
即《すなは》ち変へらるるなり。
職虫《しよくちう》の勝手なる、無残なる刺激は
陋劣《ろうれつ》にも食物《しよくもつ》をもてす。
さてまた、其等《それら》各種の虫の多きに過ぐれば
職虫《しよくちう》はやがて刺し殺して食らふとよ。

[#ここで段組終わり]
[#改丁]
[#ページの左右中央から]

   幻想と風景
        (雑詩八十七章)

[#改丁]
[#ここから2段組]

    曙光

今、暁《あかつき》の
太陽の会釈に、
金色《こんじき》の笑ひ
天の隅隅《すみずみ》に降り注ぐ。

彼《か》れは目覚《めざ》めたり、
光る鶴嘴《つるはし》
幅びろき胸、
うしろに靡《なび》く
空色の髪、
わが青年は
悠揚《いうやう》として立ち上がる。

裸体なる彼《か》れが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見て羨《うらや》めり。

青年の行手《ゆくて》には、
蒼茫《さうばう》たる
無辺の大地、
その上に、遥《はる》かに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
路《みち》の如《ごと》く横たはるは、
唯《た》だ、彼《か》れの歩み行《ゆ》く
孤独の影のみ。

今、暁《あかつき》の
太陽のみ
光の手を伸べて
彼《か》れを見送る。


    大震後第一春の歌

おお大地震《だいぢしん》と猛火、
その急激な襲来にも
我我は堪《た》へた。
一難また一難、
何《な》んでも来《こ》よ、
それを踏み越えて行《ゆ》く用意が
しかと何時《いつ》でもある。

大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那《せつな》に永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在の魂《たましひ》。

おお此《こ》の魂《たましひ》である、
鋼《はがね》の質を持つた種子《たね》、
火の中からでも芽をふくものは。
おお此《こ》の魂《たましひ》である、
天の日、太洋《たいやう》の浪《なみ》、
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。

我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、溌溂《はつらつ》たる素朴と
未曾有《みぞう》[#ルビの「みぞう」は底本では「みそうう」]の喜びの
精神と様式とが前に現れる。

誰《たれ》も昨日《きのふ》に囚《とら》はれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りの剥《は》げた額縁に入《い》れるな。
手は断《た》えず一《いち》から図を引け、
トタンと荒木《あらき》の柱との間《あひだ》に、
汗と破格の歌とを以《もつ》て
かんかんと槌《つち》の音を響かせよ。

法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。

新しく生きる者に
日は常に元日《ぐわんじつ》、
時は常に春。
百の禍《わざはひ》も何《なに》ぞ、
千の戦《たゝかひ》で勝たう。
おお窓毎《まどごと》に裸の太陽、
軒毎《のきごと》に雪の解けるしづく。


    元朝の富士

今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
美《うつ》くしいパステルの
粉《こな》絵具に似た、
浅緑《あさみどり》と淡黄《うすき》と
菫《すみれ》いろとの
透《す》きとほりつつ降り注ぐ
静かなる暁《あかつき》の光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅《さんごこう》の熔岩《ラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》――
新しい世界の噴火……

わたしは此時《このとき》、
新しい目を逸《そら》さうとして、
思はずも見た、
おお、彼処《かしこ》にある、
巨大なダンテの半面像《シルエツト》が、
巍然《ぎぜん》として、天の半《なかば》に。

それはバルジエロの壁に描《か》かれた
青い冠《かんむり》に赤い上衣《うはぎ》、
細面《ほそおもて》に
凛凛《りゝ》しい上目《うはめ》づかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
その優《やさ》しく気高《けだか》い顔を
一《いつ》ぱいに紅《あか》くして微笑《ほゝゑ》む。

人人《ひとびと》よ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰《あふ》げ、共に、
朱《しゆ》に染まる今朝《けさ》の富士を。


    伊豆の海岸にて

石垣の上に細路《ほそみち》、
そして、また、上に石垣、
磯《いそ》の潮で
千年の「時」が磨減《すりへ》らした
大きな円石《まろいし》を
層層《そうそう》と積み重ねた石垣。

どの石垣の間《あひだ》からも
椿《つばき》の木が生《は》えてゐる。
琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《らうかん》のやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な支那《しな》の貴女《きぢよ》が
笑つた口のやうな紅《あか》い花。

石垣の崩れた処《ところ》には

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