、百感にも殖《ふ》える。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手を繋《つな》ぐ。
すべてが細かに実《み》が入《い》つて、
すべてが千千《ちぢ》に入《い》りまじり、
突風《とつぷう》と火の中に
すべてが急に角《かく》を描《か》く。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的に合《あは》されて、
神秘な踊《をどり》を断《た》えず舞ふ
大《だい》建築に変り行《ゆ》く。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つて止《や》まぬ殿堂の
白と赤との大理石《マルブル》の
人像柱《クリアテイイド》の一本に
諸手《もろて》を挙げて加はらう。
阿片《あへん》が燻《いぶ》る……
発動機《モツウル》が爆《は》ぜる……
楽《がく》が裂ける……


    三つの路

わが出《い》でんとする城の鉄の門に
斯《か》くこそ記《し》るされたれ。
その字の色は真紅《しんく》、
恐らくは先《さ》きに突破せし人の
みづから指を咬《か》める血ならん。
「生くることの権利と、
其《そ》のための一切の必要。」
われは戦慄《せんりつ》し且《か》つ躊躇《ため》らひしが、
やがて微笑《ほゝゑ》みて頷《うなづ》きぬ。
さて、すべて身に著《つ》けし物を脱ぎて
われを逐《お》ひ来《きた》りし人人《ひとびと》に投げ与へ、
われは玲瓏《れいろう》たる身一つにて逃《のが》れ出《い》でぬ。
されど一歩して
ほつと呼吸《いき》をつきし時、
あはれ目に入《い》るは
万里|一白《いつぱく》の雪の広野《ひろの》……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この刹那《せつな》、
否《いな》、永劫《えいごふ》[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]に、
この繊弱《かよわ》き身一つの外《ほか》に無かりき。
われは再び戦慄《せんりつ》したれども、
唯《た》だ一途《いちづ》に雪の上を進みぬ。
三日《みつか》の後《のち》
われは大いなる三つの岐路《きろ》に出《い》でたり。
ニイチエの過ぎたる路《みち》、
トルストイの過ぎたる路《みち》、
ドストイエフスキイの過ぎたる路《みち》、
われは其《そ》の何《いづ》れをも択《えら》びかねて、
沈黙と逡巡《しゆんじゆん》の中に、
暫《しばら》く此処《ここ》に停《とゞ》まりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風|四方《よも》に吹きすさぶ……


    錯誤

両手にて抱《いだ》かんとし、
手の先にて掴《つか》まんとする我等よ、
我等は過《あやま》ちつつあり。

手を揚げて、我等の
抱《いだ》けるは空《くう》の空《くう》、
我等の掴《つか》みたるは非我《ひが》。

唯《た》だ我等を疲れしめて、
すべて滑《すべ》り、
すべて逃《のが》れ去る。

いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は此内《このうち》にこそあれ。

我を以《もつ》て我を抱《いだ》けよ。
我を以《もつ》て我を掴《つか》め、
我に勝《まさ》る真実は無し。


    途上

友よ、今ここに
我世《わがよ》の心を言はん。
我は常に行《ゆ》き著《つ》かで
途《みち》の半《なかば》にある如《ごと》し、
また常に重きを負ひて
喘《あへ》ぐ人の如《ごと》し、
また寂《さび》しきことは
年長《とした》けし石婦《うまずめ》の如《ごと》し。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろより苛《さいな》む苦痛なり。
われは愧《は》づ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の大網《おほあみ》にして、
黄金《わうごん》の時を捕《とら》へんとしながら、
獲《う》る所は疑惑と悔《くい》のみ。
我が諸手《もろて》は常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。


    旅行者

霧の籠《こ》めた、太洋《たいやう》の離れ島、
此島《このしま》の街はまだ寝てゐる。
どの茅屋《わらや》の戸の透間《すきま》からも
まだ夜《よる》の明りが日本酒|色《いろ》を洩《もら》してゐる。
たまたま赤んぼの啼《な》く声はするけれど、
大人は皆たわいもない[#「たわいもない」は底本では「たはいもない」]夢に耽《ふけ》つてゐる。

突然、入港の号砲を轟《とゞろ》かせて
わたし達は夜中《よなか》に此処《ここ》へ著《つ》いた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう朝飯《あさはん》の済んだ頃《ころ》だ、
わたし達はまだホテルが見附《みつ》からない。
まだ兄弟の誰《た》れにも遇《あ》はない。

年《ねん》ぢゆう[#「ぢゆう」は底本では「ぢう」]旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の此島《このしま》へ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な放浪者《バガボンド》[#ルビの「バガボンド」は底本では「バカホンド」]だと罵《のゝし》らう。

わたし達は彼等を覚《さま》さねばならない、
彼等を生《せい》の力に溢《あふ》れさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と露西亜《ロシア》バレエの調子で
彼等と一所《いつしよ》に踊らねばならない、
此島《このしま》もわたし達の公園の一部である。


    何かためらふ

何《なに》かためらふ、内気なる
わが繊弱《かよわ》なるたましひよ、
幼児《をさなご》のごと慄《わなゝ》きて
な言ひそ、死をば避けましと。

正しきに就《つ》け、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。

飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
生《せい》に勝たんと叫べかし。


    真実へ

わが暫《しばら》く立ちて沈吟《ちんぎん》せしは
三筋《みすぢ》ある岐《わか》れ路《みち》の中程《なかほど》なりき。
一つの路《みち》は崎嶇《きく》たる
石山《いしやま》の巓《いたゞき》に攀《よ》ぢ登り、
一つの路《みち》は暗き大野の
扁柏《いとすぎ》の森の奥に迷ひ、
一つの路《みち》は河に沿ひて
平沙《へいしや》の上を滑《すべ》り行《ゆ》けり。

われは幾度《いくたび》か引返さんとしぬ、
来《こ》し方《かた》の道には
人間《にんげん》三月《さんぐわつ》の花開き、
紫の霞《かすみ》、
金色《こんじき》の太陽、
甘き花の香《か》、
柔かきそよ風、
われは唯《た》だ幸ひの中に酔《ゑ》ひしかば。

されど今は行《ゆ》かん、
かの高き石山《いしやま》の彼方《かなた》、
あはれ其処《そこ》にこそ
猶《なほ》我を生かす路《みち》はあらめ。
わが願ふは最早《もはや》安息にあらず、
夢にあらず、思出《おもひで》にあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。


    森の大樹

ああ森の巨人、
千年の大樹《だいじゆ》よ、
わたしはそなたの前に
一人《ひとり》のつつましい自然崇拝教徒である。

そなたはダビデ王のやうに
勇ましい拳《こぶし》を上げて
地上の赦《ゆる》しがたい
何《な》んの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。

そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしに解《わか》る、
そなたの鬱蒼《うつさう》たる枝葉《えだは》が
休む間《ま》無しに汗を流し、
休む間《ま》無しに戦《わなゝ》くので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘《ギリシヤ》闘士の胴のやうな
そなたの逞《たくま》しい幹が
全世界の苦痛の重さを
唯《た》だひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。

或《ある》時、風と戦つては
そなたの梢《こづゑ》は波のやうに逆立《さかだ》ち、
荒海《あらうみ》の響《ひゞき》を立てて
勝利の歌を揚げ、
また或《ある》時、積む雪に圧《お》されながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。

千年の大樹《だいじゆ》よ、
蜉蝣《ふいう》の命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたに由《よ》つて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたの蔭《かげ》を踏んで思ひ、
そなたの幹を撫《な》でて歌つてゐる。

ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの根方《ねがた》に葬られて、
そなたの清らかな樹液《セエヴ》と
隠れた※[#「執/れっか」、137−下−2]《あつ》い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。

なつかしい大樹《だいじゆ》よ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしの魂《たましひ》の上に
爽《さわ》やかな広い蔭《かげ》を投げてゐる。


    我は雑草

森の木蔭《こかげ》は日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱《かよわ》く低き下草《したくさ》は
葉末《はずゑ》の色の褪《あ》せ初《そ》めぬ。

われは雑草、しかれども
猶《なほ》わが欲を煽《あふ》らまし、
もろ手を延《の》べて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。

死なじ、飽くまで生きんとて、
みづから恃《たの》むたましひは
かの大樹《だいじゆ》にもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。


    子供の踊(唱歌用として)

踊《をどり》、
踊《をどり》、
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
円《まる》く輪を描《か》く子供の踊《をどり》。

踊《をどり》、
踊《をどり》、
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな凛凛《りゝ》しい身の構へ、
物に怖《おそ》れぬ男の踊《をどり》。

踊《をどり》、
踊《をどり》、
身をば斜めに
袂《たもと》をかざし、
振れば逆《さか》らふ風《かぜ》も無い、
派手に優しい女の踊《をどり》。

踊《をどり》、
踊《をどり》、
鍬《くは》を執《と》る振《ふり》、
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
円《まる》く輪を描《か》く子供の踊《をどり》。


    砂の上

「働く外《ほか》は無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
頻《しき》りに聞《きこ》える。
わたしは其《その》声を目当《めあて》に近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草《たばこ》の煙を吹きながら、
五六人の男が[#「男が」は底本では「男か」]
おなじやうなことを言つてゐる。

わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい一人《ひとり》が
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
斯《か》うわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
褒《ほ》められた嬉《うれ》しさに
「お仲間よ」と言ひ返した。

けれども、目を挙げると、
その人達の塊《かたまり》の向うに、
夜《よる》の色を一層濃くして、
まつ黒黒《くろぐろ》と
大勢の人間が坐《すわ》つてゐる。
みんな黙つて俯《うつ》向き、
一秒の間《ま》も休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。


    三十女の心

三十女《さんじふをんな》の心は
陰影《かげ》も、煙《けぶり》も、
音も無い火の塊《かたまり》、
夕焼《ゆふやけ》の空に
一輪|真赤《まつか》な太陽、
唯《た》だじつと徹《てつ》して燃えてゐる。


    わが愛欲

わが愛欲は限り無し、
今日《けふ》のためより明日《あす》のため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。


    今夜の空

今夜の空は血を流し、
そして俄《には》かに気の触れた
嵐《あらし》が長い笛を吹き、
海になびいた藻《も》のやうに
断《た》えずゆらめく木の上を、
海月《くらげ》のやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。


    日中の夜

真昼のなかに夜《よる》が来た。
空を行《ゆ》く日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒《くろぐろ》とした蝶《てふ》のむれ。


    人に

新たに活《い》けた薔薇《ばら》ながら

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