》の馬の爛《たゞ》れて癒《い》ゆる間《ま》なき打傷《うちきず》と何《いづ》れぞ。

競馬の馬と、曲馬《きよくば》の馬と、
偶《たまた》ま市《いち》の大通《おほどほり》に行《ゆ》き会ひし時、
競馬の馬はその同族の堕落を見て涙ぐみぬ。

曲馬《きよくば》の馬は泣くべき暇《いとま》も無し、
慳貪《けんどん》なる黒奴《くろんぼ》の曲馬《きよくば》師は
広告のため、楽隊の囃《はや》しに伴《つ》れて彼を歩《あゆ》ませぬ……


    夜の声

手風琴《てふうきん》が鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬《ろば》が啼《な》くやうな、
鉄葉《ブリキ》が慄《ふる》へるやうな、
歯が浮くやうな、
厭《いや》な手風琴《てふうきん》を鳴らさないで下さい。

鳴らさないで下さい、
そんなに仰山《ぎやうさん》な手風琴《てふうきん》を、
近所|合壁《がつぺき》から邪慳《じやけん》に。
あれ、柱の割目《われめ》にも、
電灯の球《たま》の中にも、
天井にも、卓の抽出《ひきだし》にも、
手風琴《てふうきん》の波が流れ込む。
だれた手風琴《てふうきん》、
しよざいなさの手風琴《てふうきん》、
しみつたれた手風琴《てふうきん》、
からさわぎの手風琴《てふうきん》、
鼻風邪を引いた手風琴《てふうきん》、
中風症《よい/\》の手風琴《てふうきん》……

いろんな手風琴《てふうきん》を鳴らさないで下さい、
わたしには此《この》夜中《よなか》に、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……[#「……」は底本では「‥‥」]
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の一筋《ひとすぢ》のやうな声、
水晶質の細い声……

手風琴《てふうきん》を鳴らさないで下さい。
わたしに還《かへ》らうとするあの幽《かす》かな声が
乱される……紛れる……
途切れる……掻《か》き消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……

「手風琴《てふうきん》を鳴らすな」と
思ひ切つて怒鳴《どな》つて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な態度《ゼスト》ばかり……
手風琴《てふうきん》が鳴る……煩《うる》さく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、瓶《かめ》の花も、
手風琴《てふうきん》に合せて踊つてゐる……

さうだ、こんな処《ところ》に待つて居ず
駆け出さう、あの闇《やみ》の方へ。
……さて、わたしの声が彷徨《さまよ》つてゐるのは
森か、荒野《あらの》か、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事な貴《たふと》い声の在処《ありか》を。


    自問自答

「我」とは何《なに》か、斯《か》く問へば
物みな急に後込《しりごみ》し、
あたりは白く静まりぬ。
いとよし、答ふる声なくば
みづから内《うち》に事《こと》問はん。

「我」とは何《なに》か、斯《か》く問へば
愛《あい》、憎《ぞう》、喜《き》、怒《ど》と名のりつつ
四人《よたり》の女あらはれぬ。
また智《ち》と信《しん》と名のりつつ
二人《ふたり》の男あらはれぬ。

われは其等《それら》をうち眺め、
しばらくありてつぶやきぬ。
「心の中のもののけよ、
そは皆われに映りたる
世と他人との姿なり。

知らんとするは、ほだされず
模《ま》ねず、雑《まじ》らず、従はぬ、
初生《うぶ》本来の我なるを、
消えよ」と云《い》へば、諸声《もろごゑ》に
泣き、憤《いきどほ》り、罵《のゝし》りぬ。

今こそわれは冷《ひやゝ》かに
いとよく我を見得《みう》るなれ。
「我」とは何《なに》か、答へぬも
まことあはれや、唖《おし》にして、
踊《をどり》を知れる肉なれば。


    我が泣く日

たそがれどきか、明方《あけがた》か、
わたしの泣くは決まり無し。
蛋白石色《オパアルいろ》[#「蛋白石色」は底本では「胥白石色」]のあの空が
ふつと渦巻く海に見え、
波間《なみま》[#「波間」は底本では「波問」]にもがく白い手の
老《ふ》けたサツフオオ、死にきれぬ
若い心のサツフオオを
ありあり眺めて共に泣く。
また虻《あぶ》が啼《な》く昼さがり、
金の箔《はく》おく連翹《れんげう》と、
銀と翡翠《ひすゐ》の象篏《ざうがん》の
丁子《ちやうじ》の花の香《か》のなかで、
※[#「執/れっか」、66−下−13]《あつ》い吐息をほつと吐《つ》く
若い吉三《きちさ》の前髪を
わたしの指は撫《な》でながら、
そよ風のやうに泣いてゐる。


    伊香保の街

榛名山《はるなさん》の一角に、
段また段を成して、
羅馬《ロオマ》時代の
野外劇場《アンフイテアトル》[#ルビの「アンフイテアトル」は底本では「アンフイテトアル」]の如《ごと》く、
斜めに刻み附《つ》けられた
桟敷|形《がた》の伊香保《いかほ》の街。

屋根の上に屋根、
部屋
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