ろ。
正月は唯《た》だ徒《いたづ》らに経《た》つて行《ゆ》く。


    大きな黒い手

おお、寒い風が吹く。
皆さん、
もう夜明《よあけ》前ですよ。
お互《たがひ》に大切なことは
「気を附《つ》け」の一語《いちご》。
まだ見えて居ます、
われわれの上に
大きな黒い手。

唯《た》だ片手ながら、
空に聳《そび》えて動かず、
その指は
じつと「死」を[#「「死」を」は底本では「「死」と」]指してゐます。
石で圧《お》されたやうに
我我の呼吸《いき》は苦しい。

けれど、皆さん、
我我は目が覚めてゐます。
今こそはつきりとした心で
見ることが出来ます、
太陽の在所《ありか》を。
また知ることが出来ます、
華やかな朝の近づくことを。

大きな黒い手、
それは弥《いや》が上に黒い。
その指は猶《なほ》
じつと「死」を指して居ます。
われわれの上に。


    絵師よ

わが絵師よ、
わが像を描《か》き給《たま》はんとならば、
願《ねがは》くば、ただ写したまへ、
わが瞳《ひとみ》のみを、ただ一つ。

宇宙の中心が
太陽の火にある如《ごと》く、
われを端的に語る星は、
瞳《ひとみ》にこそあれ。

おお、愛欲の焔《ほのほ》、
陶酔の虹《にじ》、
直観の電光、
芸術本能の噴水。

わが絵師よ、
紺青《こんじやう》をもて塗り潰《つ》ぶしたる布に、
ただ一つ、写したまへ、
わが金色《こんじき》の瞳《ひとみ》を。


    戦争

大錯誤《おほまちがひ》の時が来た、
赤い恐怖《おそれ》の時が来た、
野蛮が濶《ひろ》い羽《はね》を伸し、
文明人が一斉に
食人族《しよくじんぞく》の仮面《めん》を被《き》る。

ひとり世界を敵とする、
日耳曼人《ゲルマンじん》の大胆さ、
健気《けなげ》さ、しかし此様《このやう》な
悪の力の偏重《へんちよう》が
調節されずに已《や》まれよか。

いまは戦ふ時である、
戦嫌《いくさぎら》ひのわたしさへ
今日《けふ》此頃《このごろ》は気が昂《あが》る。
世界の霊と身と骨が
一度に呻《うめ》く時が来た。

大陣痛《だいぢんつう》の時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い血汐《ちしほ》の洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。

其《そ》れがすべての人類に
真の平和を持ち来《きた》す
精神《アアム》でなくて何《な》んであろ。
どんな犠牲を払う[#「払う」はママ]ても
いまは戦ふ時である。


    歌はどうして作る

歌はどうして作る。
じつと観《み》、
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
何《なに》を。
「真実」を。

「真実」は何処《どこ》に在る。
最も近くに在る。
いつも自分と一所《いつしよ》に、
この目の観《み》る下《もと》、
この心の愛する前、
わが両手の中に。

「真実」は
美《うつ》くしい人魚、
跳《は》ね且《か》つ踊る、
ぴちぴちと踊る。
わが両手の中で、
わが感激の涙に濡《ぬ》れながら。

疑ふ人は来て見よ、
わが両手の中の人魚は
自然の海を出たまま、
一つ一つの鱗《うろこ》が
大理石《おほりせき》[#ルビの「おほりせき」はママ]の純白《じゆんぱく》のうへに
薔薇《ばら》の花の反射を持つてゐる。


    新しい人人

みんな何《なに》かを持つてゐる、
みんな何《なに》かを持つてゐる。
後ろから来る女の一列《いちれつ》、
みんな何《なに》かを持つてゐる。

一人《ひとり》は右の手の上に
小さな青玉《せいぎよく》の宝塔。
一人《ひとり》は薔薇《ばら》と睡蓮《すいれん》の
ふくいくと香る花束。

一人《ひとり》は左の腋《わき》に
革表紙《かはべうし》の金字《きんじ》の書物。
一人《ひとり》は肩の上に地球儀。
一人《ひとり》は両手に大きな竪琴《たてごと》。

わたしには何《な》んにも無い
わたしには何《な》んにも無い。
身一つで踊るより外《ほか》に
わたしには何《な》んにも無い。


    黒猫

押しやれども、
またしても膝《ひざ》に上《のぼ》る黒猫。

生きた天鵝絨《びろうど》よ、
憎からぬ黒猫の手ざはり。

ねむたげな黒猫の目、
その奥から射る野性の力。

どうした機会《はずみ》[#ルビの「はずみ」は底本では「はみ」]やら、をりをり、
緑金《りよくこん》に光るわが膝《ひざ》の黒猫。


    曲馬の馬

競馬の馬の打勝たんとする鋭さならで
曲馬《きよくば》の馬は我を棄《す》てし
服従の素速《すばや》き気転なり。

曲馬《きよくば》の馬の痩《や》せたるは、
競馬の馬の逞《たくま》しく美《うつ》くしき優形《やさがた》と異なりぬ。
常に飢《ひも》じきが為《た》め。

競馬の馬もいと稀《まれ》に鞭《むち》を受く。
されど寧《むし》ろ求めて鞭《むち》打たれ、その刺戟に跳《をど》る。
曲馬《きよくば
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