悲しければ
堪《た》へ難《がた》く悲しければ
我は云《い》ひぬ「船に乗らん。」
乗りつれど猶《なほ》さびしさに
また云《い》ひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物の如《ごと》く
呼び掛くること無く、
しばらくして、円《まる》き月
波に跳《をど》りつれば云《い》ひぬ、
「長き竿《さを》の欲《ほ》し、
かの珊瑚《さんご》の魚《うを》を釣る。」
緋目高《ひめだか》
鉢のなかの
活溌《くわつぱつ》な緋目高《ひめだか》よ、
赤く焼けた釘《くぎ》で
なぜ、そんなに無駄に
水に孔《あな》を開《あ》けるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。
涼夜《りやうや》
星が四方《しはう》の桟敷に
きらきらする。
今夜の月は支那《しな》の役者、
やさしい西施《せいし》に扮《ふん》して、
白い絹|団扇《うちは》で顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。
卑怯
その路《みち》をずつと行《ゆ》くと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯《ひけふ》な利口者《りこうもの》であつた私、
それ以来、私の前には
岐路《えだみち》と
迂路《まはりみち》とばかりが続いてゐる。
水楼にて
空には七月の太陽、
白い壁と白い河岸《かし》通りには
海から上《のぼ》る帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板を叩《たゝ》く
船大工の槌《つち》がひびく。
私の肘《ひぢ》をつく窓には
快い南風《みなみかぜ》。
窓の直《す》ぐ下の潮は
ペパミントの酒《さけ》になる。
批評
我を値踏《ねぶみ》す、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽に値《ね》のあらば。
過ぎし日
先《ま》づ天《あま》つ日を、次に薔薇《ばら》、
それに見とれて時経《ときへ》しが、
疲れたる目を移さんと、
して漸《やうや》くに君を見き。
春風《はるかぜ》
そこの椿《つばき》に木隠《こがく》れて
何《なに》を覗《のぞ》くや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い椿《つばき》の花が散る。
君の心を究《きは》めんと、
じつと黙《もだ》してある身にも
似るか、素直な春の風、
赤い笑《ゑ》まひが先に立つ。
或人の扇に
扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春を留《とゞ》むるすべを知る。
桃の花
花屋の温室《むろ》に、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
覗《のぞ》くことをば怠るな、
人の心も温室《むろ》なれば。
杯《さかづき》
なみなみ注《つ》げる杯《さかづき》を
眺めて眸《まみ》の湿《うる》むとは、
如何《いか》に嬉《うれ》しき心ぞや。
いざ干したまへ、猶《なほ》注《つ》がん、
後《のち》なる酒は淡《うす》くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注《つ》ぐ酒なれば。
日和山《ひよりやま》
鳥羽の山より海見れば、
清き涙が頬《ほ》を伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に云《い》ふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
臥《ふ》せる美神《※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニユス》の肌のごと
すべて微笑《ほゝゑ》む入江をば。
志摩の国こそ希臘《ギリシヤ》なれ。
春草《しゆんさう》
弥生《やよひ》はじめの糸雨《いとさめ》に
岡《をか》の草こそ青むなれ。
雪に跳《をど》りし若駒《わかごま》の
ひづめのあとの窪《くぼ》みをも
円《まろ》く埋《うづ》めて青むなれ。
二月の雨
あれ、琵琶《びは》のおと、俄《には》かにも
初心《うぶ》な涙の琵琶《びは》のおと。
高い軒《のき》から、明方《あけがた》の
夢に流れる琵琶《びは》のおと。
二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの樋《とひ》に身を隠し、
それと云《い》はずに琵琶《びは》を弾く。
秋の柳
夜更《よふ》けた辻《つじ》の薄墨の
痩《や》せた柳よ、糸やなぎ。
七日《なぬか》の月が細細《ほそほそ》と
高い屋根から覗《のぞ》けども、
なんぼ柳は寂《さび》しかろ。
物思ふ身も独りぼち。
冬のたそがれ
落葉《おちば》した木はY《ワイ》の字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星《みやうじやう》は
黄金《きん》の句点を一つ打つ。
薄く削つた白金《プラチナ》の
神経質の粉雪よ、
瘧《おこり》を慄《ふる》ふ電線に
ちくちく触《さは》る粉雪よ。
惜しき頸輪
我もやうやく街に立ち、
物|乞《こ》ふために歌ふなり。
ああ、我歌《わがうた》を誰《た》れ知らん、
惜しき頸輪《くびわ》の緒《を》を解きて
日毎《ひごと》に散らす珠《たま》ぞとは。
思《おもひ》は長し
思《おもひ》は長し、尽き難
前へ
次へ
全63ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング