なると、
いろんな蜻蛉《とんぼ》が止まりに来る。
天井の隅や
額《がく》のふちで、
かさこそと
銀の響《ひゞき》の羽《はね》ざはり……
わたしは俯向《うつむ》いて
物を書きながら、
心のなかで
かう呟《つぶや》く、
其処《そこ》には恋に疲れた天使達、
此処《ここ》には恋に疲れた女|一人《ひとり》。


    夏よ

夏、真赤《まつか》な裸をした夏、
おまへは何《なん》と云《い》ふ強い力で
わたしを圧《おさ》へつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春の間《あひだ》に貯《た》めた
命の力を強く強く使はされる。

夏、おまへは現実の中の
※[#「執/れっか」、197−上−4]《ねつ》し切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを取入《とりい》れよう、
おまへに騎《の》つて行《い》かう、
太陽の使《つかひ》、真昼《まひる》の霊、
涙と影を踏みにじる力者《りきしや》。

夏、おまへに由《よ》つてわたしは今、
特別な昂奮《かうふん》が
偉大な情※[#「執/れっか」、197−上−12]《じやうねつ》と怖《おそろ》しい直覚とを以《もつ》て
わたしの脈管《みやくくわん》に流れるのを感じる。
なんと云《い》ふ神神《かうがう》しい感興、
おお、※[#「執/れっか」、197−下−2]《ねつ》した砂を踏んで行《ゆ》かう。


    夏の力

わたしは生きる、力一《ちからいつ》ぱい、
汗を拭《ふ》き拭《ふ》き、ペンを手にして。
今、宇宙の生気《せいき》が
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が一片《いつぺん》あの空から覗《のぞ》いてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと一所《いつしよ》に燃え上がる。


    大荒磯崎にて

海が急に膨《ふく》れ上がり、
起《た》ち上がり、
前脚《まへあし》を上げた
千匹《せんびき》の大馬《おほうま》になつて
まつしぐらに押寄《おしよ》せる。

一刹那《いつせつな》、背を乾《ほ》してゐた
岩と云《い》ふ岩が
身構へをする隙《すき》も無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。

磯《いそ》は忽《たちま》ち一面、
銀の溶液で掩《おほ》はれる。
やがて其《そ》れが滑《すべ》り落ちる時、
真珠を飾つた雪白《せつぱく》の絹で
さつと撫《な》でられぬ岩も無い。

一つの紫色《むらさきいろ》をした岩の上には、
波の中の月桂樹《げつけいじゆ》――
緑の昆布《こんぶ》が一つ捧《さゝ》げられる。
飛沫《しぶき》と爆音との彼方《かなた》に、
海はまた遠退《とほの》いて行《ゆ》く。


    女の友の手紙

手紙が山田温泉から著《つ》いた。
どんなに涼しい朝、
山風《やまかぜ》に吹かれながら、
紙の端《はし》を左の手で
抑《おさ》へ抑《おさ》へして書かれたか。
この快闊《くわいくわつ》な手紙、
涙には濡《ぬ》れて来《こ》ずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。


    涼風

涼しい風、そよ風、
折折《をりをり》あまえるやうに[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]
窓から入《はひ》る風。
風の中の美《うつ》くしい女怪《シレエネ》、
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を翻《ひるが》へし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎《わかあゆ》のやうに、
溌溂《はつらつ》と跳《は》ね反《かへ》らせる風。


    地震後一年

九月|一日《いちじつ》、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は誰《たれ》も、誰《たれ》も、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那《せつな》に来る、
明日《あす》に、明後日《あさつて》に来る。
私達は油断なく其《そ》れに身構へる。
喪《も》から喪《も》へ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
若《も》しも誰《たれ》かが
大平楽《たいへいらく》[#「大平楽」はママ]な気分になつて、
もう一年《いちねん》たつた今日《こんにち》、
あのやうなカタストロフは無いと云《い》ふなら、
それこそ迷信家を以《もつ》て呼ばう。
さう云《い》ふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月|一日《いちじつ》、地震の記念日。


    古簾

今年も取出《とりだ》して掛ける、
地震の夏の古い簾《すだれ》。
あの時、皆が逃げ出したあとに
この簾《すだれ
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