御寺《おてら》の庭の塀の内《うち》、
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄《そてつ》をば
立つて見上げたかなしさか。
御堂《おだう》の前の十《とを》の墓、
仏蘭西船《フランスぶね》に斬《き》り入《い》つた
重い科《とが》ゆゑ死んだ人、
その思出《おもひで》のかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷に来《き》は来《き》たが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。


    自覚

「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
慄《ふる》へた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことを云《い》へば其《その》日から
わたしの世界を知りました。


    約束

いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男は酔《ゑ》つた振《ふり》。
あの見え透《す》いた酔《ゑ》つた振《ふり》。
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」


    涼夜《りやうや》

場末《ばずゑ》の寄席《よせ》のさびしさは
夏の夜《よ》ながら秋げしき。
枯れた蓬《よもぎ》の細茎《ほそぐき》を
風の吹くよな三味線《しやみせん》に
曲弾《きよくびき》の音《ね》のはらはらと
螽斯《ばつた》の雨が降りかかる。
寄席《よせ》の手前の枳殻垣《きこくがき》、
わたしは一人《ひとり》、灯《ひ》の暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へば夜《よ》が更ける。


    渋谷にて

こきむらさきの杜若《かきつばた》
採《と》ろと水際《みぎは》につくばんで
濡《ぬ》れた袂《たもと》をしぼる身は、
ふと小娘《こむすめ》の気に返る。
男の机に倚《よ》り掛り、
男の遣《つか》ふペンを執《と》り、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。


    浜なでしこ

逗子《づし》の旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒《まつくろ》に焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著《みづぎ》すがたの脛白《はぎじろ》と
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。


    恋

むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
互《たがひ》にくどくど云《い》ひ交《かは》す。

当世《たうせい》の恋のはげしさよ、

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