の上に部屋、
すべてが温泉|宿《やど》である。
そして、榛《はん》の若葉の光が
柔かい緑で
街全体を濡《ぬら》してゐる。

街を縦に貫く本道《ほんだう》は
雑多の店に縁《ふち》どられて、
長い長い石の階段を作り、
伊香保《いかほ》神社の前にまで、
H《エツチ》の字を無数に積み上げて、
殊更《ことさら》に建築家と絵師とを喜ばせる。


    市に住む木魂

木魂《こだま》は声の霊、
如何《いか》に微《かす》かなる声をも
早く感じ、早く知る。
常に時に先だつ彼女は
また常に若し。

近き世の木魂《こだま》は
市《いち》の中、大路《おほぢ》の
並木の蔭《かげ》に佇《たゝず》み、
常に耳を澄まして聞く。
新しき生活の
諧音《かいおん》の
如何《いか》に生じ、
如何《いか》に移るべきかを。

木魂《こだま》は稀《まれ》にも
肉身《にくしん》を示さず、
人の狎《な》れて
驚かざらんことを怖《おそ》る。
唯《た》だ折折《をりをり》に
叫び且《か》つ笑ふのみ。


    M氏に

小高《こだか》い丘の上へ、
何《なに》かを叫ぼうとして、
後《あと》から、後《あと》からと
駆け登つて行《ゆ》く人。

丘の下には
多勢《おほぜい》の人間が眠つてゐる。
もう、夜《よる》では無い、
太陽は中天《ちうてん》に近づいてゐる。

登つて行《ゆ》く人、行《ゆ》く人が
丘の上に顔を出し、
胸を張り、両手を拡げて、
「兄弟よ」と呼ばはる時、
さつと血煙《ちけぶり》がその胸から立つ、
そして直《す》ぐ其《その》人は後ろに倒れる。
陰険な狙撃《そげき》の矢に中《あた》つたのである。
次の人も、また次の人も、
みんな丘の上で同じ様に倒れる。

丘の下には
眠つてゐる人ばかりで無い、
目を覚《さま》した人人《ひとびと》の中から
丘に登る予言者と
その予言者を殺す反逆者とが現れる。

多勢《おほぜい》の人間は何《なに》も知らずにゐる。
もう、夜《よる》では無い、
太陽は中天《ちうてん》に近づいて光つてゐる。


    詩に就《つ》いての願《ねがひ》

詩は実感の彫刻、
行《ぎやう》と行《ぎやう》、
節《せつ》と節《せつ》との間《あひだ》に陰影《かげ》がある。
細部を包む
陰影《いんえい》は奥行《おくゆき》、
それの深さに比例して、
自然の肉の片はしが
くつきりと
行《ぎやう》の表《おもて》に浮き上がれ。

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