》は掛かつてゐた。
誰《た》れがおまへを気にしよう[#「しよう」は底本では「しやう」]、
置き去《ざ》りにされ、
家《いへ》と一所《いつしよ》に揺れ、
風下《かざしも》の火事の煙《けぶり》を浴びながら。
もし私の家《うち》も焼けてゐたら、
簾《すだれ》よ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目に家《うち》に入《はひ》つた私が
蘇生《そせい》の喜びに胸を躍らせ、
さらさらと簾《すだれ》を巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。
簾《すだれ》は古く汚《よご》れてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしい簾《すだれ》よ、
共に災厄《さいやく》をのがれた簾《すだれ》よ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうに沸《わ》く。
おまへも私も生きてゐる。
虫干の日に
虫干《むしぼし》の日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴《ヨオロツパ》の旅にて
わが被《き》たりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里《パリイ》の流行《モオド》。
リボンと、花と、
羽《はね》飾りとは褪《あ》せたれど、
思出《おもひで》は古酒《こしゆ》の如《ごと》く甘し。
埃《ほこり》と黴《かび》を透《とほ》して
是等《これら》の帽の上に
セエヌの水の匂《にほ》ひ、
サン・クルウの森の雫《しづく》、
ハイド・パアクの霧、
ミユンヘンの霜、維納《ウイン》の雨、
アムステルダムの入日《いりひ》の色、
さては、また、
バガテルの薔薇《ばら》の香《か》、
仏蘭西座《フランスざ》の人いきれ、
猶《なほ》残れるや、残らぬや、
思出《おもひで》は古酒《こしゆ》の如《ごと》く甘し。
アウギユスト・ロダンは
この帽の下《もと》にて
我手《わがて》に口づけ、
ラパン・アジルに集《あつま》る
新しき詩人と画家の群《むれ》は
この帽を被《き》たる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手の後《のち》、
猶《なほ》一たびこの帽を擡《もた》げて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべて十《と》とせの前《まへ》、
思出《おもひで》は古酒《こしゆ》の如《ごと》く甘し。
机に凭《よ》りて
今夜、わたしの心に詩がある。
簗《やな》の上で跳《は》ねる
銀の魚《うを》のやうに。
桃色の薄雲の中を奔《はし》る
まん円《まる》い月のやうに。
風と露とに
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