ぬ岩も無い。
一つの紫色《むらさきいろ》をした岩の上には、
波の中の月桂樹《げつけいじゆ》――
緑の昆布《こんぶ》が一つ捧《さゝ》げられる。
飛沫《しぶき》と爆音との彼方《かなた》に、
海はまた遠退《とほの》いて行《ゆ》く。
女の友の手紙
手紙が山田温泉から著《つ》いた。
どんなに涼しい朝、
山風《やまかぜ》に吹かれながら、
紙の端《はし》を左の手で
抑《おさ》へ抑《おさ》へして書かれたか。
この快闊《くわいくわつ》な手紙、
涙には濡《ぬ》れて来《こ》ずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。
涼風
涼しい風、そよ風、
折折《をりをり》あまえるやうに[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]
窓から入《はひ》る風。
風の中の美《うつ》くしい女怪《シレエネ》、
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を翻《ひるが》へし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎《わかあゆ》のやうに、
溌溂《はつらつ》と跳《は》ね反《かへ》らせる風。
地震後一年
九月|一日《いちじつ》、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は誰《たれ》も、誰《たれ》も、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那《せつな》に来る、
明日《あす》に、明後日《あさつて》に来る。
私達は油断なく其《そ》れに身構へる。
喪《も》から喪《も》へ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
若《も》しも誰《たれ》かが
大平楽《たいへいらく》[#「大平楽」はママ]な気分になつて、
もう一年《いちねん》たつた今日《こんにち》、
あのやうなカタストロフは無いと云《い》ふなら、
それこそ迷信家を以《もつ》て呼ばう。
さう云《い》ふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月|一日《いちじつ》、地震の記念日。
古簾
今年も取出《とりだ》して掛ける、
地震の夏の古い簾《すだれ》。
あの時、皆が逃げ出したあとに
この簾《すだれ
前へ
次へ
全125ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング