ないので。
〔無題〕
煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。
〔無題〕
切腹しかけた判官が
由良之介を待つてゐる。
由良之介が駆けつける。
シネマを見馴れた少年は
お医者と間違へる。
[#改ページ]
昭和八年
冬晴
今日もよい冬晴《とうせい》、
硝子障子にさし入るのは
今、午前十時の日光、
おまけに暖炉《ストオヴ》の火が
適度に空内を温《あたた》めてゐる。
わたしは平和な気分で坐る。
今日一日外へ出ずに済むことが
なんとわたしを落ち著かせることか。
でも為事《しごと》が山を成してゐる、
せめてこの二十分を楽まう。
硝子越しに見る庭の木、
みな落葉した裸の木、
うす桃色に少し硬く光つて、
幹にも小枝までにも
その片面が日光を受けてゐる。
こんな日に何を書かう、
論じるなんて醜いことだ。
他に求める心があるからだ。
自然は求めてゐない、
その有るが儘に任せてゐる。
わたしは此のひまに歌はう、
冬至梅《とうじばい》に三四点の紅《べに》が見える、
白い椿も咲きはじめた、
花の頬と香りの声で
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