和六年


  〔無題〕

思ひあまれど猶しばし
云はで堪《こら》へるたのしさよ、
如何にすぐれた歌とても
書いてしまへば旧くなる。
すべて当世《たうせ》のあやまちは
要らぬ言葉の多きなり。


  〔無題〕

寒山は詩を作り、
拾得は釜を焚く。
それで昔は暮された。
ああ一千九百三十年、
わたくしはまた随筆を売る。


  秋の夜の歌

時計を見れば十一時、
秋の夜長の嬉しさよ、
筆さしおきて、また更に
己《おの》が時ぞと胸をどる。

立ちつつ棚の本を抽《ぬ》く。

夜更けて物を読むことは、
田を刈る人が手を止《や》めて
しばらく空を見るよりも
更に澄み入る心なれ。

一のペイヂをそつと切る。

今夜新たに読む本は
未知の世界の旅ぞかし。
初めの程は著者とわれ
少し離れて行くも好《よ》し。

敬ふごとく次を切る。

唯だ打黙《うちもだ》し読むことを
もどかしとする虫ならん、
我れに代りて爽かに
前の廊より声立てぬ。

電灯のいろ水に似る。


  鈴虫

りん、りん、りんと鈴虫の声、
わが背《せな》の方《かた》に起る。
思ひがけぬ虫の声よ、
小暗き廊をつたひて
わが筆執る書斎に入るな
前へ 次へ
全116ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング