する人も
かかる恐怖《おびえ》を知らざらん、
我れは家をば船とする。


  〔無題〕

からりと晴れた
夏の日に、
季節ちがひの
くわりん[#「くわりん」に傍点]の果《み》の香りが
一すぢ、
わたしの心のなかに、
その果肉の甘さを以て
ただよつてゐる。

わたしの心は
踊り疲れた女のやうに
半眠つてゐる。
さうして、半嗅いでゐる、
そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを。

こんな時が
十分ほど続いて、
ふと現実に還つたあとで、
また、姑《しば》らく、
わたしの重い頭が
猶そのくわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りを
目の前にあるやうに探してゐる。

耳もとには
貪欲な蚊が一つ二つ唸つてゐる。
平凡な
暑くるしい夕ぐれ。
書きかけた原稿が
机にわたしを待つてゐる。
くわりん[#「くわりん」に傍点]の果の香りは
わたしの感情と一緒に
もうまた帰りさうにない。


  〔無題〕

地平線は
高く高く上《あが》つて、
はての無い燥《かわ》いた砂原を、
星の多い、
明るい月夜の空に
結びつけてゐる。

砂原のなかには、
一ところ、
廃墟のやうな、
一段盛りあがつた丘の上に、

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