明治四十二年
宿屋
八番の客人《まらうど》の室《ま》に
行き給へ、われに用なき
君なりと、いとあらゝかに
云ふめるは、この朝日屋の
中二階赤ら顔なる
宿ぬしの住ふ部屋より
もるゝ声、腹立ちの声。
小田原の小住《こすみ》と云ひし
宿の妻、夕方ときし
洗ひ髪しづくのたるを
いとへれば椽にたゝずみ
大嶋の灯など見るらし。
水いろの絽の染裕衣《そめゆかた》[#「裕衣」はママ]
繻子《しゆす》の帯風に吹かるゝ。
いまだなほ去《い》にをらずやと
蚊帳《かや》の人云ふのゝしれど、
もの云はず蚊うつ団扇の
はた/\と音するばかり。
若い衆《しゆ》の風呂仕まひする
唄の声何を云ひしか
この女闇にほゝ笑む。
産の床
甘睡《うまゐ》せる我が枕辺に
音も無く物ぞ来れる。
静かなる胸を叩きて
傍らに寄り添ふけはひ。
見開きて見る目に映る
影ならず、黄色の衣
まばゆくも匂へるを着て
物は今足のまはりを
往来《ゆきゝ》しぬ。あさましき物
見じとして心ふたげば
物は消ゆ。嬉しと思ひ
目ひらけば又この度は
緋のころも袖うち振て
魔ぞ立てる。黄色の物と
緋の物とこもごも見えつ。
且つ見れば彼方《
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