ほと気息《いき》をつく。
〔無題〕
粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙|未《いま》だ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下《もと》に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語。
×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。
世は変る、変る、
偏すること無く変る、
愛と正義の中に変る。
×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外《うちと》に。
×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処《いづこ》ぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
世界は如何に動くべき、
国民《くにたみ》は何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
×
我等は陛下の赤子《せきし》、
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心《みこゝろ》に集まる。
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて被《おほ》ひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界を容《い》るるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生《せいせい》として常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします。
×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労《いそし》む者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
×
眠りつるは覚めよ、
怠《たゆ》みつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
逸《そ》れつるは本に復《かへ》れ。
他《ひと》の国には他《ひと》の振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来《きた》る、
夜《よ》は明けんとす、東《ひんがし》に。
×
我等が行くべき方《かた》は
陛下今指さし給ふ。
止《や》めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。
[#改ページ]
昭和三年
〔無題〕
障害物を越ゆる
騎馬の人の写真より、
我目は青磁の皿なる
レモンの黄に移り行き、
ふと、次の間《ま》の
鳩の時計の呼ぶに、
やがて心は
碓氷の峰の頂《いただき》
冬枯の落葉松《からまつ》に眺め入り、
浅間より浮び来る
白き雲に乗りつつ、
高く高く遊ぶ。
〔無題〕
飛べ、けはしきを、風の空、
吹け、はげしきを、火の喇叭《らつぱ》、
摘め、かをれるを、赤い薔薇、
漕げ、逆巻《さかま》くを、千波万波、
君が愛、音楽、詩の力。
[#改ページ]
昭和四年
小鳥の巣
見上げたる高き木間《このま》に
胸ひかる小鳥のつがひ、
もろともに啣《くは》へて帰る
一すぢの細き藁屑、
まめやかに、いぢらしきかな、
日のあたる南に向きて、
こもりたる青葉の蔭に、
巣を作る頬白《ほほじろ》のわざ。
春の日は若き雌《め》と雄《を》と
花の木に枝うつりして、
霜と雨、風をも凌ぎ、
歌ひけん、岡より岡へ。
初夏の小鳥のこころ
今は唯だ生むを楽み、
雛のため、高き木間に
巣を作る頬白のわざ。
旅中
小蒸汽の艫《とも》、
ここに立ちて
後ろを見れば、
過ぎ去る、
過ぎ去る、
逃げるやうに過ぎ去る
わたしの小蒸汽。
後ろに長く引くのは、
板硝子のやうな航跡、
その両側に
船底から食《は》み出した浪が
糊を附けて硬《こは》ばつた
藍色の布の
襞と皺とを盛り上げる。
ぱつと白く、
そのなかに、遠ざかる
港の桟橋を隠して、
レエスの網を跳ね上げる飛沫《しぶき》。
また突然に沢山のS《エス》の字が
言葉のやうに呟いて
やがて消えゆく泡。
陸から、人から、
貧乏から、筆から、
わたしの平生から、
ああ、かうして離れるのは好い。
過ぎ去る、
過ぎ去る、
わたしの小蒸汽。
瞼
まぶたよ、
何と云ふ自在な鎧窓だ。
おかげで、わたしは
じつと内を観る。
唯だ気の毒なのは、折々
涙の雨で濡れることである。
[#改ページ]
昭和五年
少女子《をとめご》の花
(卒業生を送る歌)
教へ子のわが少女《をとめ》たち、
この花をいざ受けたまへ。
君たちのめでたき門出、
よき此日、うれしき此日、
そのはじめ皆をさなくて
ほの紅き蕾と見しも、
いつしかとわが少女たち
この花にいとこそ似たれ。
似たまふは姿
前へ
次へ
全29ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング