か、此世には、
思ひあへども逢はぬこと、
逢はれぬことに如《し》くぞ無き。

心うれしく躍るなり、
身に余りたる我が恋は
君知らしめせ、忍びかね、
衣《きぬ》を通して光るとも。

こころぞ躍る、この夕、
君来たまはんしるしなり、
蜘蛛は軒より一すぢの、
長き糸こそ垂れにけれ。


  森の新秋

今日の森は涼し、
わたり行く風の音
はらはらと旗を振る。

濃いお納戸《なんど》の空、
上の山より斜めに
遠き地平にまで晴れたり。

まろく白き雲ひとつ
帆の如くに浮び出で、
その空も海に似る。

森の木は皆高し、
ぶな、黒樺、稀れに赤松、
樹脂の香《か》の爽かさ。

太陽は近き幹をすべり、
我が凭る椅子の脚にも
手を伸べて金《きん》を塗る。

かのぶな[#「ぶな」に傍点]の枝に巣あり、
何の小鳥ぞ、胸は朱、
鳴かずして二羽帰る。

紅萩、みじかき茅、
りんだうの紫の花、
猶濡れたれば行かじ。

我れは屋前の椅子に、
読みさせる書をまた開く。
秋は今日森に満つ。


  〔無題〕

蒋介石に手紙を出したが、
届いたと云ふことを聞かぬ。
聞違つてゐた、
わたしは唐韻の詩で書いた、
商用華語を知らないので。


  〔無題〕

煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。


  〔無題〕

切腹しかけた判官が
由良之介を待つてゐる。
由良之介が駆けつける。
シネマを見馴れた少年は
お医者と間違へる。

[#改ページ]

 昭和八年


  冬晴

今日もよい冬晴《とうせい》、
硝子障子にさし入るのは
今、午前十時の日光、
おまけに暖炉《ストオヴ》の火が
適度に空内を温《あたた》めてゐる。

わたしは平和な気分で坐る。
今日一日外へ出ずに済むことが
なんとわたしを落ち著かせることか。
でも為事《しごと》が山を成してゐる、
せめてこの二十分を楽まう。

硝子越しに見る庭の木、
みな落葉した裸の木、
うす桃色に少し硬く光つて、
幹にも小枝までにも
その片面が日光を受けてゐる。

こんな日に何を書かう、
論じるなんて醜いことだ。
他に求める心があるからだ。
自然は求めてゐない、
その有るが儘に任せてゐる。

わたしは此のひまに歌はう、
冬至梅《とうじばい》に三四点の紅《べに》が見える、
白い椿も咲きはじめた、
花の頬と香りの声で

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