と
砂丘《しやきう》との間を漕ぐ
一人の青年の渡守、
その名は田中文治さん。
文治さん、
あなたは寡言《むくち》です、
あなたは人の十言《とこと》に対して
やつと[#「やつと」に傍点]一言を答へます、
重い、重い、鉄のやうな一言を。
文治さん、
あなたは人が礼を述べても
大して嬉し相な表情を見せません、
勿論、世辞や愛想《あいそ》は。
文治さん、
あなたは兵役から帰つて来た人です
それで居て、少しも都会じみず、
日焼の黒い顔と、
百姓の子の生地とを保つて居る。
文治さん、
あなたは避暑客のために、
この夏中、此町の青年と一緒に、
渡守の役目を引受けて居る。
文治さん、
あなたは三日置の自分の番の外に、
仲間の者の課役をも助けて、
殆ど毎日、逞ましい裸体《はだか》で、
炎天の下《もと》に櫓を採つて居る。
文治さん、
あなたは寡言《むくち》です。
けれど、その銅像のやうな全身は
未来の偉大な人道を語ります。
朝露
今朝田舎には、
しつとりと
白い大粒の露が置いて居る。
私達が素足に
竹の皮の草履を穿いて、
小走りに海の方へ下りて行くのは、
両側に藤豆と玉蜀黍《たうもろこし》とが
人の丈よりも高く立つ細道。
おお、何と云ふ親しさだ。
小さな紅玉を綴つた花や、
翡翠の色の長い葉が
額にも、手にも、袂にも触れる。
さうして、その度に露がこぼれる。
今朝、田舎には
どの草木にも
愛の表情と涙とが溢れて居る。
秋の匂ひ
秋の優しさ、しめやかさ。
どの木、どの草、どの葉にも、
冴えた萠葱《もえぎ》と、金色《こんじき》と、
深い紅《べに》とが入りまじり、
そして、内気なそよ風も、
水晶質のしら露の
嬉し涙を吹き送る。
秋の優しさ、しめやかさ。
空行く雁は瑠璃《るり》色の
高い大気を海として、
櫓を漕ぐやうな声を立て、
何処《どこ》の窓にも睦じい
円居の人の夜話に
黄菊の色の灯が点《とも》る。
晩秋の感傷
秋は暮れ行く。
甘き涙と見し露も
物を刺す霜と変り、
花も、葉も、茎も
萎れて泣かぬは無し。
秋は暮れ行く。
栗は裸にて投げ出《いだ》され、
枯れがれの細き蔓よりも
離散する黒き実あり、
黍幹《きびがら》も悲みて血を流しぬ。
秋は暮れ行く。
今は人の心の水晶宮も
粛として澄み透り、
病みたる愛の女王の傍ら
睿智の獅子は目を開く。
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