我家《わがいへ》は小路に沿ひて、
更に一段低き窪にあり。
門を覗きて斜めに
人も、我も
横穴の悒欝を思ふ。

門と玄関との間、
両側に立つ痩せし樫の幹は
土中より出でし骨の如くに黒み、
その灰色する疎らなる枝は
鉛の静脈を空に張れり。

我家は佝僂病者《くるびやうしや》なり、
その内部は暗く屈みて
常に太陽を見ず、
陰湿の空気壁に沁みて
菊の香《か》の如く苦《にが》し。

さもあらばあれ、我は愛す、
我家の傷ましく淋しきを。
精舎と行者との如く、
同じ忍辱の中に
人と家とは黙し合ふ。

さて、我家にも、
二階の障子に
朝の日の射す片時あり、
見給へこの稀なる
我家の桃色の笑顔を。


  永き別れ

発車前三分……
我は更に戦きて
汽車の窓に歩み寄る。
発車前三分……
中なる人も
湿《うる》みたる目に見下ろし、
痙攣《ひきつ》る如く手を伸べぬ。

いかで、我等に残るこの束の間、
猶吸はばや、君が心を、
君が※[#「執/れっか」、10巻−377−下−7]を、君が香《か》を。
発車前三分
はた、わが命のため、
捉へて我目に留めばや、
君が顔を、君が姿を。

狂ほしくなれる我は
君が手の上に
はげしき接吻《くちづけ》を押して、
思はず、きと噛みぬ。
おゝ、今、基督《クリスト》の其れの如く、
わが脈管を伝ひて拡がるは
君が聖なる血の一滴……

汽笛は空気を裂く。
時なり、汽車は動き、
二度と来らぬ旅人の
君は遠く去り行く……
さはれ匂はしき記憶よ、
証《あか》せかし、常に猶、
我が衷《うち》に君の在るを。
[#改ページ]

 大正八年


  朝晴雪

ひと夜《よ》明くれば時は春、
おお、めでたくも晴れやかに
天は紺青、地の上は
淡紫と薔薇色を
明るく混ぜた銀の雪、
強き弱きの差別なく
世の争ひを和らげて
まんまろと積む春の雪、
平等の雪、愛の雪。
此処へ東の地平から
黄金《こがね》の色に波打つは、
身を躍らして駈け上《のぼ》る
若い初日の額髪。


  朝晴雪

おお、此処に、
躍りつつ、
歌ひつつ、
急ぐ女の一むれ……
時は朝、
地は雪の原。

急ぐ女の一むれ、
青白き雪の上を
真一文字に北へ向き、
風に逆ふ髪は
後ろに靡きて
大馬の鬣《たてがみ》の如く、
折からの日光を受けて
金色《こんじき》に染まりぬ。

高く前に張れる両手は
確かに掴まんとする
理想の憧れに慄へて
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