この台詞《せりふ》は音楽的である。
死の舞台の音羽屋より、
茶《ちやつ》けた鈴蘭は劣る。
服毒した鈴蘭を、
今も憐んで云ふ、
押花になつてくればよかつた。

王の栄華と耶蘇の比べた、
百合はアネモネだと云ふ説のやうに、
強烈な色に印度では咲く
沙羅双樹か知らぬが、
日本の山の白い沙羅は、
あてに、いみじく、脆い花である。
初めもはても高雅である。
鈴蘭を何故《なぜ》変死させますか。


  幻の銀杏

みちのくの津軽の友の
云ひしこと、今ゆくりなく
思ひ出で、涙流るる。
悲しやと、さまで身に沁む
筋ならず聞きつることの、
年を経て思はるるかな。
おん寺の銀杏の大木、
色うつり、黄になる見れば、
朝夕になげかるるなり、
忌はしく、ゆゆしき冬の、
近づきし、こと疑ひも
なきためと、友は云ひてき。
今われが柱に倚りて
見るものに、青青《せいせい》たらぬ
木草なし、満潮《みちしほ》どきの
海鳴りのごと蝉の鳴く、
八月に怪しく見ゆれ、
みちのくの、板柳町
岩木川流るるあたり、
古りにたる某でらの
境内の片隅にして、
上向きに枝を皆上げ、
葉のいまだ厚き銀杏の
黄に変り、冬を示せる
立姿、かの町びとの
目よりまた、除きがたかる、
寂しさの備る銀杏。
うつつにし、見るにもあらず、
この庭に立つにはあらず、
衰へし命の中に、
見ゆるなれ、北の津軽の
黄葉《もみぢ》する大木の銀杏。

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昭和十五年


  死

Aさんの死、
そんなことがと云ひながらも、
否定の出来ない事実であるのを
弁へる心も私は持つてゐた。
人間はいつもこんな風に
運命を従順に受け入れる。
受け入れる外はないからである。
だから死は恐い。
最後の偽善をしようとせぬ限り、
誰れにも恐しくない死はない。
哲人もさうである、
大作家も詩人も、
大僧正も。
Aさんが壇から下り、
急に倒れた時と、
死との間の短い時に
どんな恐しい思ひをしたことか。
死刑前の五分間の長さを、
或る作家は書いてゐる、
短くば短い程、
死を待つ心の苦は長い。
Aさんを悲んで、
死の真際などに語ればさうした、
ことはどうでもよかつた、
と云はれるやうな思ひ出に、
Aさんでなく、生きてゐる私は、
飽くなく浸つてゐる。
Aさんは五十四ではてた。
Nさんと同じ頃、
紅梅町へ来た人である、
Nさんは五十二で去年逝つた。
若さそのものの
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