明けん朝《あした》に関心を、
もち初めしよと我れは聞く。


  〔無題〕

確かにも脈ぞ打ちたる、
安んぜよ愁ふるなかれ、
阿佐ヶ谷の博士来たまひ、
斯くも云ひ慰めませど、
我れは聞く、こと新しと。
友のE歩み寄り来て、
話せじ見ば足りぬべし、
としも告げ、一揖《いちいふ》をして、
抜足に病室を出づ。
何となく昨日と今日の、
変れるを下に悟れど、
我がやまひいちじるしくも、
重りぬぞなど思はんや、
※[#「執/れっか」、10巻−490−上−12]の度を人の計れど、
たださんと我れはせぬなり、
初めよりせぬことするは、
恥しき事と思へば。

[#改ページ]

 昭和十四年


  或る日

こし方を書き綴れよと、
云ふ人のあるはうるさし。
未来をばいかに夢むと、
問はるべき人にあらずと、
我れはやく知らぬにあらず、
知りてなほ、さはあらんやと、
目に見えぬものにあらがひ、
自《みづか》らの思ひ上れる
こころざし、世の笑ふとも、
我れならで、我れを正しく、
述べて云ふもののあらねば、
憚らず今云ひ放つ、
何ごとも昔はむかし、
今は今、未来のみこそ、
はかりえぬ光なりけれ。
朝夕におのれを育て、
我れと云ふものを見知らぬ、
大かたのあげつらひ人、
目開かん世を期してのみ
進むべく我れを掟てぬ。
一切の過去は切るべき
利剣《わざもの》のあらば切りてん。


  鈴蘭の変死

鈴蘭は変貌します。
鈴蘭は変貌をしません。
この花は優しい。
この花は恐しい。
草野《くさの》を飾る花。
グロテスクな花。
北海道の方方《かたがた》に、
思つたままを云ひませう。

私の遠い昔の五月の日、
通り過ぎたシベリヤは、
むらむらの白樺を混ぜた
鈴蘭の原であつた。
早春の雪の厚さで、
盛られた鈴蘭の大野、
鈴蘭の気流の中を、
私は三日程進んで行つた。

函館のトラピストの庭で、
尼君の名を問ふと、
伊藤とも加藤とも云はれず
マルチノと告げられた。
尼マルチノと私は並んで立つた、
仄かな鈴蘭の香の中で。
花は撒かれた霰ほどだつた。
尼君は私のために摘んだ。

六月に入ると北国《きたぐに》から、
箱詰めにして送られる鈴蘭、
おのれの強い芳香の、
化学的変化が、
毒素になつて死ぬ鈴蘭。
初めだけは白花、青い葉。
二日日には満身の赤錆。
毒死するのです。

五臓六腑うに沁み渡る、
芝居はともかくも
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