甲子園、ホテルの宵を、
遥かにも思ひやりつつ、
浮びくる唐の詩人の
宮詞《きゆうし》など、口に載せつつ、
幸ひの身にも及ぶと
云ふ如く、我れ楽みき。
あることか、二三日のちの
消息は、新男君《にひをとこぎみ》、
うちつけに、その夜中より
病して、妹背の契り、
空しくも、うたかたとなり、
永久に帰らぬ国へ、
翌る日の十七日に、
赴くと、逝《かく》れましぬと、
云ふものか、報ずるものか。
あさましと、云ふにも過ぎぬ。
はかなしと云ふきはならず。
喪の人と、この時すでに、
新妻の美喜子の君は
なりたまひ、つるばみごろも、
深く染め、籠りたまふと、
云ふことを、誰れか思はん。
涙ゆゑ濡れまろがりし
ひたひ髪、そのまみ見ゆれ。
哀愁にとざされはてし、
二方《ふたかた》のたらちねの君、
思はれて、虚無の隣の
人の世を、ひたすら歎く。
をんな
涙の花のことごとく、
白く咲く日も、その内に
燃ゆる焔のひそみたる、
女の胸の怪しさよ。
かの青春が放ちたる、
火の綿綿と絶えざるを、
抱きて死ぬ期に至るこそ
太陽の子の女なれ。
かつてはあてに香ぐはしき、
くれなゐの花咲かしめき、
恨みの心深きとき、
むらさきの花零せしか。
六十年の齢《とし》終り、
病の深くむしばめる、
身は身なれども、我れは斯く、
思ひ上りて歌を書く。
鵯
藍鼠をば著た上に、
伊達ものめいた黒を掛け、
党を組んだるひよどりが、
柑橘の畑荒しても、
追はぬ主人《あるじ》は故郷《ふるさと》の、
若人達を相手にて、
一葉余さず落葉掃く、
蓬が平《ひら》の真珠庵。
折しも続く東海の、
錦の雲の真中に、
ネエブル色の日が出れば、
伊太利亜型のひよどりは、
蜜柑の枝に背を反らし、
其処へ行かうと同志等に、
ささやく声もうち消して、
どつと渚の波が寄る。
〔無題〕
都の中の神田にも、
丑三つ時のあることを、
病みて知れるにあらねども、
声の無きこそ哀れなれ。
しとどの汗のうちに覚め、
そこはかとなく明りさす
室の広きを見渡せば、
昼の二三の顔浮ぶ。
病めば思ひも多からで、
同じ筋のみたどられぬ。
生死《しやうじ》の覚悟身に沁まず、
我がこととなくよそよそし。
小床と向ふ垂幕に、
伊豆の入江の烏賊船の、
いさり火模様描くものは、
下谷浅草本所の火。
短夜なれば既にして、
外を通へる風の音
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