の生を営む婦人のあるという事が必ずしも不合理でない一証には、古《いにしえ》の女帝にも御独身の方が多く、女流の文学者にも寡婦《かふ》となって後に名を揚げ、また未婚で終った人たちも少くない。独身主義は決して今日の新しい婦人の発明ではなく、現に我我と異《ちが》った前代の教育を受けられた今の老年女流教育家にも独身もしくは寡婦で押通した方が多いのです。論者はそういう例は特別である、そういう独身婦人は変り物だといわれるでしょうが、其処《そこ》が前に申した如く、現代の根本精神は各人の個性に適応して自由なる発達を遂げる事を尊重し、「女はこうすべきものだ」と一概に決めてしまわない所に妙味があるのですから、むしろ特例が多く、良い意味の変り物が多く出るのが結構なのです。一元論でなく多元論なんです。もし嘉悦孝子《かえつたかこ》先生や幸田延子《こうだのぶこ》女史が結婚せられ、下田歌子《しもだうたこ》先生が再婚せられたのであったら、あれだけの社会的事業は出来なかったでしょう。小学校や女学校に多数の独身を守られる婦人があってこそ教育界は実績が挙って参るのです。これらの御婦人たちはいずれも結婚しない事の苦い不幸を味《
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