里も五里も歩きましてね。』
女は外の板の廊下へ膝を突いてかう云ふのでした。
『それは気の毒だ、さあ此方へ来給へ。』
と良人は云ひました。女は入つて来ましたが、私は初対面の挨拶をするのもきまりが悪くて、
『御遠慮をなさらないで、此方へ来てお掛けなさい。』
などと云つて女を椅子に座らせてしまひました。
『三里も五里も道に迷ひましてね。』
『電車にお乗りにならなかつたの。』
『いいえ、乗つて参りまして三番町で降りたのですよ。』
『ぢやあ直ぐ近くだ。』
と良人が云ひました。
『それから六度も同じ処を通りましたんですよ。六度もね。終ひにあの四つ辻の角の酒屋で聞きましてやつと解りましたんですよ。』
女のこめかみには一寸四方程の頭痛膏が張つてありました。髪は女工のして居るやうな総髪《そうはつ》の梳髪《すきがみ》なのでした。紡績絣の袷を素肌に着て、半幅の繻子の帯をちよこなんと結んで、藍地の麻の葉のメリンスの前掛をして居ました。女は穢れた瓦斯紅絹の八ツ口から見える自身の腕を眺めてじつとして居ました。
『Y君はどうしてるね。』
『Yさんね、毎日毎日歩くもんですからね、こんな底まめを三つも足の裏に
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