中で響く指音は、忍ぶ恋路の男がする合図の様に聞える。其瞬間、十年前に経験しなかつた若い心持をわたしは今更味ふ様な気がする。
看護婦さんは行儀の正しい無口な女で、物を言へば薄い銀線の触れ合ふ様な清《す》んだ声で明確《はつきり》と語尾を言ふ。感情を顔に出さずに意志の堅固さうな所は山口県生れの女などによく見る型である。わたしは院長さんの博士よりも此の看護婦さんに余計気が置ける。
いつも産をして五日目位から筆を執るのがわたしの習慣になつて居たが、今度は病院へ這入《はひ》らねばならぬ程の容体であつたから後の疲労も甚しい。其れに心臓も悪い。熱も少しは出て居る。其れで筆を執らうなどとは考へないけれど、じつと斯《か》うして寝て居ると種種《いろいろ》の感想が浮ぶ。坐禅でもして居る気で其を鎮めようとしても却《かへつ》て苦痛であるから、唯妄念の湧くに任せて置く。その中で小説が二種ばかり出来た。一つは二十回ばかり出来てまだ未完である。其等は諳誦して忘れない様にして居るが、歌の形をして浮んだ物丈は看護婦さんの居ない間を見計《みはから》つて良人に鉛筆で書き取つて貰ひ、約束のある新聞雑誌へ送つて居る。せめて側
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