折医員や看護婦さんが水道栓を捩《ね》ぢて手を浄める音と、何処かで看護婦達の私語する声と、看護婦の溜で鳴る時計の音と、其れ位のものである。宅に居て何時も静かな家に住みたいと願つて居たわたしも此単調には堪へられない。二三日前までは時計の鳴るのを待ち兼ねたが、今ではもう、十二時頃だらうと思ふのに未だ宵の九時を打つたりするのでがつかりして、あの意地の悪い音は聞えない方がよいと思ふ。耳を澄まして何か新しい物音を探し当てようとするが、変つた音の聞えないのは苦痛である。
 偶※[#二の字点、1−2−22]廊下の遠くから幽かな上草履の音がして、其れが自分の副室の前で留つた時は胸を跳らさずに居られない。其れが行き過ぎて外の病室の見舞客である時は惨めである。人は孤立を嫌ふ。同情して貰ひたいのが素性であるらしい。
 毎日学校の帰りに立寄る長男は、いくら教へて置いても廊下で音を立てる。わたしは気兼をしながら其子供らしい足音を聞くと気が引立つ。夜に入つて見舞に来て呉れる良人は、静かに廊下に立止つて指先で二度ほど軽く副室の入口の障子を弾《はじ》く。中の人に注意を与へて置いて這入つて来るのであるが、しんとした静かな
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