れる訳には行くまい。わたしは斯んな事を考へて思はず独で微笑んだ。
副室の前は廊下になつてゐて、玄関から此処まで来るには二三回も屈折して廿四五間もある長い廊下を、おまけに岡の様な地形を利用して建てられた病室の廊下であるから、急な傾斜を二三度も上下して通らねばならぬ。通る人は皆上草履を浮かす様にして通る。此処は音を忌む国なのである。「足音をお静に」と云ふ貼紙が幾所にもしてある。或病室の前には、「重症患者有之候に付特に足音を静に御注意被下度候」とさへ書いてあると云ふ。
併し斯うして病室に横になつてゐる身には、其最も忌むと云はれる「音」が何よりも恋しい。宇宙と云ひ人生と云ふも客観的に云へば畢竟線と色と音との複雑な集りから成立つて居る。学問芸術に携はる人は、其複雑な線と色と音とが有つて居る微妙にして偉大な調和を読んで、一般群集の前に闡明する者だと云つて可い。固よりわたしは然う云ふ立派な芸術家でも無く、殊に今のわたしは産後の疲労の恢復するのを待つて天井を眺めてゐる「只の女」である。其れにしても此病室で見る線と色とは余りに貧弱である。音と云つたら副室で沸る鉄瓶の音と、廊下の前の横長い手洗場で折
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